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クリエイターズ★インタビュー:蔦哲一朗監督/『祖谷物語‐おくのひと‐』

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クリエイターズ★インタビュー:蔦哲一朗監督/『祖谷物語‐おくのひと‐』

2014年02月04日
完全35㎜フィルム撮影、169分の映像美と感動

 “奇跡の自主製作”が次代の日本映画を切り開く!

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 あのスタジオジブリ作品を彷彿とさせるような実写による映像美、アクション女優、ダンサー、演技派俳優という異彩のキャストが脚本に惚れ込んで集結、そして、完全35㎜フィルムでの撮影、上映時間169分という自主製作の範囲を超えた“奇跡の自主製作映画”『祖谷物語―おくのひと―』が、2月15日(土)より新宿K's cinemaで公開される。
 前作『夢の島』(09年)も「映画らしさ」を追求したモノクロ16㎜フィルムによる作品だったが、このデジタル化の時代に敢えて反旗を翻すかのごとく、日本三大秘境の一つ、徳島県・祖谷を舞台に本作を作り上げた注目の若手、蔦哲一朗監督に製作意図や経緯、大自然の中での撮影の裏話、「映画」=フィルムに対する思いなどについて話を聞いた。若者たちはなぜ、無謀ともいえる映画製作に挑んだのか―!?
(インタビュー/文・構成:映画記者・和田隆)




人間の本性をテーマにしたかった

和田 『祖谷物語』を撮る前の活動についてまず聞きたいのですが、前作が第31回PFF アワード観客賞などを受賞した『夢の島』になるわけですね。東京工芸大学時代にアナクロ映画集団「ニコニコフィルム」を立ち上げ制作したということですが。

DSCF0364.JPG蔦監督(写真右) 大学時代からずっと映画を自主製作としてやっていました。『夢の島』も大学の卒業製作として、自分たちのメンバーで企画して全部作りました。フィルムでやったのですが、現像なども自分たちでやりましたから、作品の内容だけでなく、そんな意気込みのようなものも評価されて、いろいろな映画祭などに出品させてもらいました。そういう評価があったので、今回『祖谷物語』という企画書は出しやすかったというのがありました。

和田 『夢の島』の後、この『祖谷物語』をずっと撮ろうと考えていたのですか。

蔦監督 僕たちのスタイルは、フィルムでやりたいというのが第一前提で、次は35mm、普通の商業映画で使うフィルムを使いたいとずっと模索していたのです。僕はプラス、人間の本性のようなものを常にテーマにしたかったので、そういったもので何かいい題材はないかと考えた時に、自分の地元の祖谷だったらそういったもの、古き良き日本の原風景のようなものが残っている所なので、そこを舞台に綺麗な風景とそこに暮らす人々のつつましい生活ぶりなどが撮れるのではないかと思って企画しました。それは完全に僕個人発の企画で、みんなに提案して賛同してもらえたという形です。

和田 前作のモノクロな作品から、一転今回はこういう大自然を舞台にしたカラーの作品ということで、その辺の振り切り方というのは監督の中で何か変化があったのですか。

蔦監督 35mm、カラーというのは未知の領域といいますか、どういった画になるのか、実際に撮るまで全然わかりませんでした。デジタルより綺麗なのかという不安もずっとあったのです。実際に撮ってラッシュを見た時には「なんか、いけそうだな」と思え、しっくりきているといいますか、これで映画を2時間ぐらい作ったら、祖谷の風景の素晴らしさ、自然の美しさがちゃんと表現できるのではないかと、フィルムの力を信じ切れたというようなところはありました。

和田 自主製作で、大自然を舞台に35mm、カラーで撮るという企画を立てた時、製作費についてはどういう考えだったのですか。

蔦監督 僕があまりにも無知すぎて(苦笑)、35mmで映画を1年間撮ったらどれぐらいになるというのを、もちろんざっと予算は出したのですが、いろいろなところに経費がかかってきて、16mmで自分たちがやっていた時とは桁が違うとは思っていなかったのです。最初はなんとなくいけるだろうと思って徳島県三好市の市長さんに企画書を持っていって、約1000万円近く出していただけるということになり、「それだけあればいけるだろう!」と安易に思ったのです。最初は短編で考えていて、35mmで1年間綺麗な風景を撮れたらいいという考えでした。
 しかし1000万円という金額を聞いた時に、「長編いけるな」と勝手に思い込んで、そこからまたシナハン(シナリオ・ハンティング)という形でずっと1年間ぐらい祖谷を学んで長編にしたのです。何も知らずに、ちゃんと工程の勉強をせずに、長編で35mm、1年間という大それたことをやってしまったので、後々苦労しました。実際にそのあと地元で追加の資金集めとか、いろいろな助成金もさらにお願いしたりということもありましたので、それはかなり皆さんにご迷惑をかけたと思います…。

普通だったらなくなってしまう企画


和田 ある種の無知と無謀さが原動力になったと(笑)。

iya_main.jpg蔦監督 それで乗り切ったといいましょうか。普通だったらなくなってしまう企画なのでしょうけれど、それを本当にやり遂げることができたのは、地元の方と、僕の父がお金集めも含めて地元で頑張ってくれたので、そこで助かったという感じです。

和田 市長さんに話を持って行く時に、お祖父さんが徳島の池田高校を率いて甲子園を沸かした、あの有名な蔦文也監督であり、お父さんも地元で頑張っているという、その家系だというのは大きかったのですね。

蔦監督 たぶんそれはありますね。他の人が大学を卒業して、何かしらの映画賞を取って、企画書を持っていったぐらいでは、やはりちょっと難しいとは思います。祖父も昔、市の方に寄付などもしていたようで、なかなか断りづらいというのもあったのではないでしょうか。ただ、地元の人たちは地域活性化の企画は常に求めているので、映画をやりたいという思いはあったと思うのです。まあ、ちょっと乗っかってみようではないですけれど、映画という話が来たからやってみようというのは、あったのではないでしょうか。

和田 1000万円というお金は、どういう名目で出してくれることになったのですか。

蔦監督 市長さんにどれぐらい必要かと言われた時に、「1000万円あればいけますかね」とお願いしました。実際には900万円ぐらいですが。それも映画のために予算が出るわけではなく、観光宣伝費とか、いろいろな部とか課から切り詰めたもの、寄せ集めてきたものをいただいたような感じです。父が三好市の市役所に勤めていて、総務部長までやっていましたので、全部の課に顔が利きますから、そういったことも父がやってくれました。ですから、本当に僕だけでは集まらなかったと思います。

和田 最終的に製作費はどれぐらいかかったのですか。

蔦監督 2500万円ぐらいです。

和田 それは普通の自主映画を超えた金額ですよね。

iya_stuff1.jpg蔦監督 たぶんこのクラスはないと思いますね。フィルムが大体どれぐらいかかるか知らなくて、35mmでやっただけで、フィルムで1300万円ぐらい飛んでいきました。では、実質作品にどれだけかけられたかと言われると難しいところなのですけれど…。

和田 今まで一緒にやってきたスタッフには、切り詰めるところは切り詰めてもらって参加してもらった形で撮影に入ったと。

蔦監督 ギャラはかなり切り詰めてもらって、美術も祖谷にあるもので調達していって、道具なども祖谷の古民家の倉庫から借りて引っぱり出して来たような物を使ったというような感じです。美術費はかなり抑えられました。

和田 お金だけではなく、地元の方々の協力もかなり大きかったようですね。

蔦監督 はい、宿泊もかなり安くしていただきました。スタッフは小学校の体育館とかキャンプ場のような所に泊まらせていただいたり、あと食事ですよね、一番ありがたかったのは。婦人会の方々が、毎日昼と夜の食事は全部作ってくださったのです。現場で長期間やるとご飯の心配というのが一番重要ですので、それでかなり安心できました。

和田 三好市で映画をやるのは初めてだったのですか。

蔦監督 祖谷ではないのですけれど、池田寄りの所をメインに使ったような映画はありました。祖谷のこういった奥地まで行った映画は初めてです。

和田 奥地の人たちからすれば「映画が来た!」という感じでしたか。

蔦監督 実際に祖谷の人たちが映画に興味があったかというと、微妙なところです。地元の方は、観光化とはいっても、自分たちの所にあまり踏み入って欲しくないというのはやはりあると思うのですよ。観光化するとどんどん観光客が来て、自分たちの周りがいろいろ変わってきますので。その辺の難しいバランスはあります。

和田 最初、短編を撮ろうとしたものが、結果的に169分という尺になったわけですが、撮っていくうちに尺が伸びて製作費が膨らんでいったのですか。

蔦監督 役者さんにもシナリオを提出した時点では、2時間ぐらいのページ数だったのですけれど、実際には、ここをやりたいと思っていてもト書きを飛ばしているような感じで、短く収めた感はありました。僕の中では2時間20分、もしかしたら30分いくかなぐらいの、なんとなくの把握はあったのですけれど、さらにそれを超えて2時間49分という…。撮影しながら、最初思っていたよりも長くなったといいますか、狙いの自然の風が吹いている感じとかも撮ろうと思った時に、なんか短く切って撮れなかったといいますか、延々と撮っていたい感じがありました。
 東京編は最初はなくて、(主人公の)春菜が祖谷を出て行って終わるはずだったのですけれど、行くだけだとちょっと映画が終わり切れないなと僕の中で途中から思い出して、東京編というものを作り、それでやはり20分ぐらい延びてくるわけです。でも、東京編はもっとやりたかったというのが本音です。1時間ぐらいもっとやって、東京の生活ぶりというのをわかりやすく、案山子を見つけるまでのくだりもちゃんと丁寧に描けたらと思いました。

和田 これ以上切っても、またリズムが違ったでしょう。監督の中で撮りながらここまで必要だったというのが感覚として出て来たということなのですね。

iya_stuff3.jpg蔦監督 文字で見ていると、どうしても人間の行動が主体になってシナリオを書いてしまうのですが、今回の映画を撮りつつ、それだけではないなというのがどんどん見えてきました。最初からそれを狙っていたかと言われると難しいところですが、そういったものが主体になっていったような感じです。
 祖谷の問題提起などはなんとなく皆さん知っているといいましょうか、映画の中では描かれやすい、ドキュメンタリーなどで描きやすいテーマだと思います。フィクションという時に何かもう一つ、答えではないのですけれど、問題提起とプラスアルファの何か――僕の中で「希望」と言ってもいいのですが、あれはどう捉えるかはちょっと難しいところなのですけれど、次の世代に対しての何かしらの希望を出したかったという意味で、春菜が(都会から移り住んで来た男)工藤に再会するというラストシーンをどうしてもやりたくなったのです。

和田 あれは素晴らしかったです。あのシーンがあることで、この作品がもう一つのテーマ、春菜の父なるものへの郷愁、回帰して来るというところで終わりますね。

蔦監督 春菜のお爺(おじい)という存在が僕の中では山の神に近い、人間と自然の中間の存在なのです。それに育てられた春菜というのは「もののけ姫」といいますか、そこで人間と自然の共存ということがあの家の中で起きているわけです。それでお爺がいなくなった時に、では春菜がどう生きていくのかということで、最終的に工藤に再会し、工藤にお爺の意味合いもかかってきます。僕たちが見失いつつあるものを、少しずつ取り戻そうとしている感じを描けたらなと。それは次の世代のことではないかなと思って描いたつもりです。

スタジオジブリ作品には影響を受けている


和田 最初からスタジオジブリ的な要素も狙っていたのですか。

蔦監督 ジブリは狙わなくしても自分の中で根底にずっとあります。『風の谷のナウシカ』(84年)からもう全部観て育っていて、一番ジブリに感銘を受けています。本当にジブリ、宮崎駿さん、高畑勲さんを含め、自分が影響されているからこういう映画を撮っていると言っても過言ではないと思うのです。小さい時に観た影響が強いというか、ジブリ作品を観た時、何かそんな感慨が自分にもあったから非常に共感できたといいますか、「そうだ、そういうのを観たかったんだよ!」というものがありました。実写でこういうものをやりたいというのがずっとあり、“ジブリの実写”といえばみんな興味を持ってくれるだろうと思って、そこはあざとく言っているところではあるのですけれど(笑)。

和田 撮影は大変だったと思いますが、スタッフはついて来てくれましたか。

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蔦監督 企画はついて来てくれましたね。田舎で1年間かけて、しかも35mmで撮るという時に、みんな「面白そう!」と最初は。僕たちの前までのスタイルは、楽しさをもって映画を作ろうという感じはなんとなくありました。今回、僕が一番かもしれないですが、プロとして、商業映画としても意識してきたので、ちゃんとお客さまにも見せられるものを作るには、もうちょっとちゃんとしたクオリティのものをやりたかったのです。厳しくではないですけれど、楽しさ半分、真剣さも重点にしたかったのです。
 ただ、最初祖谷に来た時、みんな観光のような感じで来ていた雰囲気が若干あったので、それはちょっと違うなと思いました。実際、自分でお金集めもしたからだと思うのですけれど、プロデューサーも今回やって、「このままじゃヤバいな」と思い、ぎくしゃくではないですけれど、スタッフとの思いのズレ、温度差はありました。僕は祖谷の山奥にみんなを連れて行きたかったのですけれど、朝一で起きて、2時間山を登ってというのは、スタッフは本当にしんどい感じで、ボイコットなどもあったりしました(笑)。

和田 それで撮影スケジュールが延びてしまったこともあったのですか。

蔦監督 延びた理由の一番はやはり自然が相手ですので、冬なども天候によって延びたというのが一番です。そういうところでスタッフのモチベーションもどんどん落ちていき、予定が変わるとなかなか維持しづらいですね。

和田 プロデューサーの役割もされたことは、大変だったでしょう。

蔦監督 今までは自分たちの貯金などを寄せ集めた何十万円とか、前作『夢の島』は100万円ちょっとで制作しましたけれど、今回、お金集めとプラスたくさんの人を巻き込んでやっているので、そこに対しての精神的な重圧は大きかったです。
 一番キツかったのは、1年間撮影している中で冬終わりぐらいの時に、「本当にあと春・夏のシーンが撮れるのか…」というのが精神的に一番しんどかったです。完成しないというところの重圧が一番こわかったですね。完成しなかった時、父などを含め、顔を上げて町を歩けない。あれはあまり経験したくはないです。何ができるかというわけでもなく、次の撮影の予定まで空いてしまうので、その期間もちろん準備はしているのですけれど、本当にモヤモヤした日が続いて、精神的に苦しかったです。
 ただ、その大変さがやりたくてやっているようなところもありますので、規模が大きいという意識はあまりなかったです。「35mmで1年間やっているのは、なかなかいないだろう」という感じで思っていたぐらいです。今いろいろな映画祭など出品させてもらっている中で、若いけど頑張っているという部分もたぶん評価してもらっていると思いますので。

和田 もはや自主映画とは呼べない作品です。

蔦監督 “自主映画”で今売っていますけれど、最初の意識としては商業映画でやりたいというのが一番でした。スタッフのモチベーションとしても、自主上映よりもちゃんと商業公開するという意識でやっていく方が熱いと思うのです。自主映画とわかっているのですけれど、「これは商業映画なんだ」と思ってみんなやっていたところはあると思います。逆に宣伝していく時には、下手に商業映画と言うよりは、“自主映画でここまでのことをやって、若者たちが頑張ってます”ということをアピールしていった方がいいのではないかと思ってから、気持ちを切り替え、“奇跡の自主映画”という言い方をするようになりました。(つづく)



iya_sub3.jpg『祖谷物語―おくのひと―』(上映時間:169分)

製作:映画『祖谷物語』製作委員会
企画・制作・宣伝・配給:ニコニコフィルム
監督・編集:蔦哲一朗
ラインプロデューサー:蔦泰見
脚本:蔦哲一朗、上田真之、竹野智彦、河村匡哉
撮影監督:青木穣 録音:上條慎太郎 照明:中西克之、稲葉俊充 ヘアメイク:桑本勝彦 スチール:内堀義之 衣裳:田中美紗紀音楽:川端啓太

出演:武田梨奈、田中泯、大西信満、村上仁史、石丸佐知、クリストファー・ペレグニ、山本圭祐、西トミエ(地元キャスト)、木村茂(地元キャスト)、田岡佳子、城戸廉、小野孝弘、美輪玲華、森岡龍、河瀬直美




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