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文化通信社企画セミナー「映画界大論戦 プロデューサーVS学生」

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文化通信社企画セミナー「映画界大論戦 プロデューサーVS学生」

2012年12月26日

メジャー、インディの大ヒットメーカーの“日常”に迫る!

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 TIFFCOM主催、文化通信社企画セミナー「映画界大論戦 プロデューサーVS学生」が、第25回東京国際映画祭(TIFF)開催中の10月25日、TIFFCOM会場のホテルグランパシフィックLE DAIBAで開催された。
 同セミナーには、セディックインターナショナルの中沢敏明代表取締役、東宝の川村元気プロデューサーが出席。文化通信社の大高宏雄特別編集委員が司会を務め、学生・業界人に向けて「映画界の現状」や「プロデューサーの仕事」などが語られた。
 独立プロダクション、メジャー会社というそれぞれの立場で、近年の日本映画において数々の代表作、話題作、ヒット作を手掛けている両氏。ヒット作を生み出すカギはいったいどこにあるのか―。業界人にとっても、またこれから映画業界を目指す若者にとっても非常に示唆に富んだ、為になる貴重なセミナーとなった。期間限定でセミナーの模様を本コーナーで一部再録する。



中沢プロデューサーと若松孝二監督による幻の企画

P1210491.jpg大高(写真左) 日本を代表するプロデューサーお二方にお越し願いました。映画界の現状をわかりやすく、プロデューサーの立場からお話をして頂きたいと思っています。まず近年、東宝配給作品の大ヒット作品を連発しております、東宝のプロデューサー、川村元気さんです。続いて、大車輪の製作活動をしていらっしゃるセディックインターナショナル代表取締役、中沢敏明さんです。
 まず最初に、亡くなって以降、こういう場で若松孝二さんの話が出るのは日本では初めてではないかと思っておりますが、ひとつ若松さん絡みで言いますと、一本、中沢さんが若松さんと企画していた作品があります。それは『風が吹くとき』という有名な原作を映画化するものでした。核戦争が起こった後、シェルターに逃げて家族が暮らすというイギリスの話なんですね。これを若松監督で実写映画化するという話が進んでいたと聞いておりました。俳優も有名スターを起用するとのことでした。若松は常に、反権力、国が絶対に喜ばない映画を作るんだと公言している人でしたから、非常に期待の企画だったと思うんです。この映画の企画が滞ったという話を聞いた時に、いったい何があったのかと
思ったものですから、最初に中沢さんからその経緯を聞いてみたいと思っています。

中沢 「風が吹くとき」というイギリスの本なのですが、脚本があがってから、若松監督と半年くらいいろいろ話し合いをしてきました。俳優も本木雅弘さんという『おくりびと』の俳優さんでやろうということでずっと進めていたんです。若松さんは僕も大好きなオヤジなのですが、なかなか頑固で、作品の作り方で内容面が合わなくて、それで結果的には握手をして別れたというか。それでまた次回別の作品をやろうという時に今回の不慮の事故に遭われてしまった。
 僕には、この「風が吹くとき」の内容に関してのやりとりで、状況が整っている中であっても、絶対に譲れない信念みたいなものがありました。もちろん監督によっては、プロデューサーがこうしたいということでも、現場で監督が自分の思うようにやっていくという人もいらっしゃるのですが、若松さんの場合は正直にその辺はこうやりたいとはっきり明言して僕と戦って、結果的にはそれでは別れましょうと、非常にいい別れ方だったと思っています。 


大スター三船敏郎の製作プロダクションからのスタート

大高 中沢さんはこの映画界に入って40年以上活躍されているプロデューサーです。プロフィールにあると思いますけど、作品を見ればわかりますように、ここ数年、日本映画の代表作、話題作を手掛けていらっしゃる。まず、業界に最初に入られたきっかけを聞いてみたいと思います。
 最初に三船プロに入られたということですが、それは1960年代末になりますか。かつて大手映画会社5社(松竹、東宝、大映、新東宝、東映)の「五社協定」というのがありまして(後年、新東宝が倒産し、日活が加わる)、当初は新会社の日活に、俳優などを引き抜かれないことが目的に出来たんです。しかし後は、映画会社間での俳優流出を止めることや、専属俳優のテレビ出演への規制などに目的が変わっていきました。そうしたなか、大スターの三船敏郎、中村錦之助、石原裕次郎、勝新太郎、こういう方々が映画の製作プロダクションを作るんです。その一つが三船プロで、中沢さんはそこに入られたと聞いているんですけど、その経緯を教えて下さい。


P1210501.jpg中沢(写真右) 学校を卒業して映画会社に入ろうと思ったのですが、その時点で日本の映画産業がやや斜陽になっていましたが、僕くらいの成績ではなかなか映画会社もとってくれない状況でした。それで僕は某地方のテレビ局に入社して、アナウンサーになろうかという矢先だったのですが、その時に稲垣浩さんという監督が、三船プロ制作の『風林火山』(69年)という時代劇を作っていました。僕はその現場に行って、撮影の迫力、四大スターの魅力を全て見て、映画というのは自分の中では永遠に不滅だろうと思い、どうしても映画界に入りたいということで、三船プロに入社したというような経緯です。
 僕が入社した頃は当然、三船さんが主役になって、映画のためにTVシリーズで利益を稼いで映画をやるというようなことをやっていたので、まあまあ会社的には動いていたのですが、やはり本命の映画を何本か作って、すべて失敗して、だんだん三船プロが縮小していったような状況です。


大高 その時、中沢さんは現場ではどういうことをやられていたのですか?

中沢 アシスタント・プロデューサーから出発して、やめる頃にはプロデューサーになっていきました。プロデューサーのまさにアシスタントなのですが、細かいことを言ったら、俳優さんのお弁当のこととか、ロケーションの準備とか、宿泊の事とか、いかにスムーズに映画が進行できるかというのが当時の僕たちの時代のアシスタント・プロデューサーの仕事でした。
 3年ほどやって、僕は西ドイツのミュンヘンに行くことになったわけです。三船さんが西ドイツのミュンヘンに映画の拠点を作るということで、僕は支社長という形で出向になったわけです。


大高 なんで西ドイツに映画の拠点を作ろうということになったのですか?

中沢 その時、三船さんがコマーシャルで、アラン・ドロンとD'urban(ダーバン)のコマーシャルを作っておりまして、それで三船さんもその頃アメリカの映画に数本出演なさって、これからは海外の映画も視野に入れて行きたいということだったので、向こうに拠点を作らなければならないということで、なぜか西ドイツのミュンヘンにオフィスを構えた次第です。


大高 結局、中沢さんはどうなってしまったのですか?

中沢 ここからちょっと話はズレるのですけど、実は映画の拠点というより、「レストラン・ミフネ」があって、そこの支配人みたいなことをずっと2年間くらいやっていたんです。とにかく経営者の三船さんもレストランのことなんか全くわからない、僕もわからない、わからない者同士が毎日ケンカしていました。
 僕は僕で、向こうへ行ったら映画が出来ると思っていたら映画が出来なくてレストランのことだけやっている。三船さんはレストランのことはわからないのに、レストランの文句ばかり言って、こんなステーキは大き過ぎる、小さ過ぎると細かいことまで言って、そんなことでモメて、結局2年で退社することになり、そこで自分で独立して会社をやっていくことになったわけです。


いろんなアイディアをパラレルで考えながら企画を立ち上げていく

大高 川村さんにも同じような質問をしたと思います。川村さんは最近で言うと『悪人』(10年)、『告白』(10年)、昨年で言うと『モテキ』(11年)ですね。もうちょっと数年前だと『電車男』(05年)という日本映画の大ヒット作品を連発しています。そもそも川村さんがなぜ映画をやろうと思ったのかということを含めてお聞かせ下さい。

P1210500.jpg川村(写真右) 僕は父親が映画の仕事を、僕が生まれる前にやっていたりして、その影響もあって小さい頃から映画はもの凄く観て育ったんです。でも、好きな事を仕事にするのはよくないという風に先輩から言われたりしたので、出版社に入って映画について書く仕事、「BRUTUS」のような雑誌でウディ・アレン特集みたいなの記事を作る仕事をやりたいと思っていたんですけど、結局、採用されたのは映画会社ばかりだったんです。
 それでやはり自分は映画をやる方がいいのかなということで映画業界に行きました。映画監督をやろうかと思った時期もあるんですけど、僕は未だに撮影現場が苦手というか、得意ではなくて…。なので、企画を考えて、脚本を作って、現場は監督に任せて、その後、編集から入って映画を完成させつつ、プロモーションまで考えていくことが自分としては一番性質に合っていると思ったんです。
 そもそも僕は、いろんなアイディアをパラレルで考えながら企画を立ち上げていくタイプなので、そういう形でプロデューサーをやりたいと思うようになりました。ただ、最初の2年間は映画館に勤務していて、そこで出した企画書がきっかけで、3年目から企画のセクションに呼ばれて企画を始めました。入社4年目で『電車男』という企画に出会って、26歳の時にプロデューサーデビューしました。


大高 川村さんは東宝という大きな組織の中でプロデューサーをし、中沢さんは独立プロダクションで、いろんな会社と折衝しながら映画を作る方。つまり全く対極、違うポジションで映画を作っているということだけは、皆さんご理解して下さい。
 いま川村さんの話を聞いていて、ふと思ったんですけど、映画会社に所属しているプロデューサーは、企画を上に持っていっても会社と対立したり、なかなか上手くいかないこともあると思うんですね。その中で『悪人』や『告白』という企画を通すことが出来た。その前には『デトロイト・メタル・シティ』(08年)というのがあって、これも大ヒットしました。『デトロイト~』みたいな企画も会社側に説得する場合、凄い難しいかと思うのですが。


川村 そうじゃないとアドレナリンが出ないというか、原作ものをやる場合に、面白いけど、映画になりにくいタイプの作品の方が燃えるんです。それをどうやったら映画的になるんだろうと考えるプロセスで初めて、映画的な面白さが生まれると思っていて、多分自分の中でそれが発明出来れば会社も説得できるし、発明出来なかったら説得できないという。そんなことを最初に自分に課しているところがあります。


大高 説得の仕方なんですけど、最近、過去のデータを背景にして映画を作る形が当然あると思いますが、今の川村さんの話を聞いていると、そういうデータはあまり関係ないですか?

川村 関係なくはないです。気にしないと言いながら、結構気にしています(笑)。ただ、直近のマーケティングは気にしないです。『告白』を企画したときは、10年前に『バトル・ロワイアル』(00年)という映画が大ヒットして、10年間ああいう映画があまりなかったから、お客さんは戻ってくるんじゃないかなと。10年に1本くらいこういうスタイルの映画があってもいいのではないか。そういうところを拠り所にしました。
 やりたいと思ったことに一生懸命に自分なりの理屈を付けているうちにいつの間にか本物の理屈になっていくというやり方かもしれないです。そこが企画を通すというプロセスに近いのかもしれない。

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海外のどこの国にもない日本の映画興行の偏った構造

大高 今、ヒットしている邦画を見てみると、例えば年間で興行収入ベスト10の8~9本が東宝配給作品になってしまう。こういう偏った構造は、海外のどこの国にもないのではないでしょうか。一方、そういう背景の中で、東宝には『デトロイト~』『悪人』『告白』とか、ある意味非常に野心的な映画が出てくる土壌がある。

中沢 僕の場合は独立プロですから、ましてや自己資金で進めて行く方向をとっているので、かなりヒットというか、収支計算は最初からきちっと自分なりにやっていかなければならないと思っています。もちろん作る映画は全部ヒットさせなければいけないと思っているのですが、いま特に僕がやっていることは、とにかくいっぱいいいネタをどんどん拾っていくのですけど、よく考えると、ヒットする作品を残していくには、もしかしたらいかに自分が蓄えた企画を捨てて行くかということだと思います。その捨てるということが、今の僕の映画がヒットするというか収益に結びつく映画の作り方かなと思っています。


大高 『おくりびと』は、かなり企画が長く眠っていたということですか。それが陽の目をみた原因はなんでしょうか?

中沢 これは3年間眠っていたんですけど、その間脚本を作ったり、いろんなことをしているんです。今日の質問の中に「プロデューサーの日常は?」というものがあったんですけど、僕は毎朝、早起きなので本屋さんに行くんです。本屋さんに行ってコーヒー飲みながらただで1時間くらい本を読むのですが、面白いネタがあったらそれを帰りながらああしようかこうしようか考えるんです。
 ある時、本屋へ行った時に、「死後の見つめ方」みたいな本が随分本棚に並んでいたので、これだったら『おくりびと』もあるのじゃないかと思って再度立ち上げました。 


大高 でも、お金を出す側、配給をする側になると、やはり納棺師の話ということで、そんなに簡単に動くプロジェクトではなかったのではないですか?

中沢 先ほども言ったように、僕は映画を仕掛ける時に、他人のお金はあてにしないで突入していきます。となると必然的に自分の出来る範囲内の映画しかできない。『おくりびと』もそういった形で作っていきました。もちろん配給会社からこの映画は難しいというのがあったのですけど、僕としては完成させるべく準備をして、進んでいるうちに配給会社さんの方から手をあげて頂いて、TV局さんにも手をあげて頂いて、結果的に配給が出来て、興行的にも成功という形になったのだと思います。


大高 配布した資料に、現在のセディックインターナショナルの企画の本数(約20本)が並んでいると思います。これだけの企画を抱えている会社は、大手の配給会社以外ではありません。進行している人という印象が非常に強い。このなかに、日本人なら誰でも知っている「おしん」という映画があります。中国でも凄く有名なドラマで、撮影は?

中沢 今日の質問の中に、「映画を時代を捉えてやるかどうか?」という質問があったのですけど、たぶん「おしん」という企画を僕が発表した時には、「中沢は気がふれたのじゃないか?」と、今頃なぜ「おしん」なんていう企画をやるのだという意見もありました。
 ただ、いま邦画というのがなかなか日本でビジネスするのが難しい状況になってきたので、少しでも海外に進出、海外に販売出来ればということで、まずは「おしん」を立ち上げて、そこでプロデューサーなりの自分の収支計算をしてやろうと決めていきました。でも、おかげさまで今になって「おしん」はやるべきだという流れになって、少しいい風が吹いてきている状況です。予定通り来年の2月~3月に撮影して、秋に配給ということで決まっています。 (つづく)


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