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宮崎駿監督引退会見

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宮崎駿監督引退会見

2013年10月04日

【Vol.2】

自分で描かないと表現できない


Q.「時代に追いつかれて追い抜かれた」と言いましたが、それが今回の引退と関係あるのでしょうか?

宮崎 関係ありません。アニメ監督が何やっているかというのは皆さんよくわからないことだと思うんですけど、アニメ監督といってもみんなそれぞれ仕事の仕方は違います。僕はアニメーター出身なもので、(自分で)描かないといけないんです。描かないと表現できないので、そうするとどういうことが起こるかと言いますと、メガネを外してこうやって描かなければいけないんです。これを延々とやっていかなくてはいけないんですけど、どんなに体調を整えて節制していても、それに集中していく時間は年々減っていくことは確実なんです。それは実感しています。

 例えば、『崖の上のポニョ』(08年)の時に比べると僕は机を離れるのが30分早くなっています。この次はさらに1時間はやくなるんだろうと、その物理的に加齢による衰えはどうにもできませんし、それで苛立っても仕方ないんですね。じゃあ、違うやり方をすればいいじゃないかという意見がありますが、それが出来ればとっくにやっていますから、出来ません。というわけで、僕は僕のやり方で貫くしかないと思いますので、長編アニメーションは無理だという判断をしたんです。


Q.『ルパン三世 カリオストロの城』(79年)に始まり『風立ちぬ』で終わるフィルモグラフィーになりますけども、何かを壊して世界を変えようとした映画を作ってきたと思うんですが、今や自称クールジャパンと言われるようなアニメの世界がありますけど、どのように(日本のアニメを)見ていますか?

宮崎 誠に申し訳ないんですけども、私が仕事をするということは、一切映画もテレビも観ない生活をすることです。ラジオだけは朝ちょっとだけ聞きます。新聞はパラパラと見ますが、あとは全く見ていません。驚くほど見ていないんです。ですから、「ジャパニメーション」というのがどこにあるのかすらよくわかりません。それに対する発言権は僕にはないと思います。皆さんも私の年齢になってデスクワークをやればわかると思うんですけど、そういう気を散らすことは一切できないんです。参考試写という形でスタジオの映写室で何本か映画をやってくれますが、大抵途中で出てしまいます。仕事した方がいいと思って…そういう不遜な人間なので、今が潮だなと思います。


Q.過去の監督は引退宣言されずに引かれる方もいますが、あえて引退宣言という形で公表しようと思った理由は?

宮崎 引退宣言をしようと思ったんじゃないんです。スタッフに辞めますと言いました。その結果、プロデューサーから引退に関する取材の申し入れがあると思うが、どうするか、いちいち受けていたら大変だという話があって、じゃあ僕のアトリエでやりましょうかという申し入れをしたら、ちょっと人数が多くて入りきれないということになって、じゃあスタジオの5スタに会議室があるのでやりましょうかと言ったら、そこもどうも難しいという話になって、ここになってしまったんです。そうすると何かがないと、口先だけで動かしているわけにはいかない。それで「公式引退の辞」を書いたんです。それをプロデューサーに見せたらこれいいじゃないかとなったんで、じゃあコピーして下さいと。こんなイベントをする気はさらさらなかったんです。


Q.宮崎作品は、商業的成功と芸術性の評価をされましたが、宮崎映画の「スタイル」とは? また、宮崎映画が日本映画界に及ぼした影響について解説してください。

鈴木 言い訳かもしれないですが、そういうことはあまり考えないようにしています。どうしてかというと、そういう風にものを見ていくと仕事が出来なくなるんですよ。ですから、僕なんかは現実には宮崎駿作品に関わったのは『風の谷のナウシカ』(84年)からなんですけどね。そこから約30年間ずっと走り続けて来て、それと同時に過去の作品を振り返ったことはなかったんですよ。それが多分仕事を現役で続ける要因だと思っていたんですよね。だから、どういうスタイルで映画を作っているのか、ふと感想として思うことはありますけど、自分たちが関わってきた作品が世間にどういう風に影響を与えたのか、それも僕はあまり考えないようにしていました。

宮崎 まったく僕も考えていませんでした。採算分岐点に辿り着いたら良かったと、それだけで終わりです。


Q.(フランスのメディア)先ほどイタリアが好きだと言われたが、フランスはいかがでしょうか?

宮崎 正直言いますね、イタリア料理の方が口に合います。(笑)クリスマスにたまたまフランスに用事があって行った時に、どこのお店に入ってもフォアグラが出てくるんです。これが辛かったです。ルーブル美術館は良かったですよ、いいところもたくさんありますけど、料理はイタリアの方が好きです。そんな大した問題だとは思わないでください。フランスの友人に、イタリアの飛行艇ではなく、フランスの飛行艇の映画を作れと言われたんですけど、アドリア海に飛んで行ったから、フランスの飛行艇はないだろうという、そういう話をした記憶はありますが。

 フランスは、ポール・グリモーという人が『王と鳥』(80年公開)という作品があり、完成形ではありませんでしたが、1952年に発表され、甚大な影響を与えました。特に、僕よりも5つ先輩の高畑勲監督の世代には圧倒的な影響を与えた作品です。それは僕らは少しも忘れていません。今観てもその志とか、世界の作り方については本当に感動します。いくつかの作品がきっかけになって、自分はアニメーターをやっていこうと決めたわけですから、その時にフランスで作られた映画の方が遥かに大きな影響を与えています。イタリアで作られた作品もあるんですけど、それを観てアニメーションをやっていこうと思ったわけではありません。

最後まで見通せる作品は作ったことがない


Q.1963年に東映動画に入社されて丁度半世紀、日々アニメのことを考えて紙に向かって描いて来られたということなんですが、振り返って一番辛かったなと思うこと、アニメを作って良かったと思ったことを教えて下さい。

宮崎 辛かったのは、本当にスケジュールでどの作品も辛かったです。それから、終りまでわかっている作品は作ったことがないんです。つまり、こうやって映画が収まっていくという見通しがないまま作っていく作品ばかりだったので、それは毎回もの凄く辛かったです。辛かったとしか言いようがないんですけど。最後まで見通せる作品は僕はやらなくていいと勝手に思い込んで、企画を立てたり、シナリオを書いたりしました。

 絵コンテという作業があるんですけど、まるで新聞連載のように絵コンテを描いている、月刊誌を出すように絵コンテを描いていると、スタッフはこの映画がどこに辿り着くのか全然わからないままやっているんです。よくも我慢してやっていたなと思うんですけど、そういうことが自分にとっては一番しんどかったことです。でも、その2年とか1年半という時間の間が自分にとっては意味のあることで、同時にあがってくるカットですけど、カットを見てこれはああでもないこうでもないと自分でいじくっていく過程で、前よりも自分の映画に対する理解が深まることも事実なんです。それによってその先が考えられるというような、そういう生産性には寄与しない形でやりましたけど、それは辛いんですよね。とぼとぼとスタジオにやってくる日々になってしまう。50年のうち何年間そうだったのかわかりませんけども、そういう仕事でした。

 監督になって良かったと思ったことは一度もありません。アニメーターになって良かったと思うことはあります。アニメーターというのは本当に何でもないカットが描けたとか、風が描けたとか、上手く水の処理が出来たとか、光の射し方が上手くいったとか、そういうことで2、3日は幸せになれるんですよ。短くても2時間くらいは幸せになれるんです。監督は最後に判決を待たなければいけないでしょ。これは良くないんです。アニメーターは最後までやっていたつもりでしたけど、アニメーターという職業はいい職業だったと思っています。


Q.それでも監督をやってきたのはどうしてでしょうか?

宮崎 簡単な理由でして、高畑勲と僕らは労働組合の事務所で出会って、随分長いこと話をしました。その結果、一緒に仕事をするまでにどれほど話をしたのかわからないくらい、ありとあらゆることについて話をしてきました。それで最初に組んでやった仕事は、自分がそれなりの力を持ってしたのは「アルプスの少女ハイジ」(74年)だったと思うんですけど、その時にまったく打ち合わせが必要のない人間になっていたんです、相互に。こういうものを出した途端に何をやるかわかる人間同士になってしまったんです。ですから、監督というのはスケジュールが遅れると怒られる、高畑勲は始末書をいくらでも書いてましたけど、そういうのを見るにつけ、僕は監督はやりたくない、やる必要はない、僕はアニメーターをやっていればいいと思っていました。まして、音楽や何やらかんやらということは全然修行もしなければ、何もやらない人間でしたから、ある時期が来て、お前ひとりで演出をやれと言われた時には、本当に途方に暮れたんです。音楽家と打ち合わせなんて言われても何を打ち合わせしていいかわからない、宜しくと言うしかない。しかもさっきも言いましたように、このストーリーがどうなっていくんですかと言われても、僕もわかりませんというしかないんで、つまりはじめから全く監督や演出をやろうと思っていた人間じゃなかったんです。

 それがやったんで、途中、高畑監督に助けてもらったこともありますけど、その戸惑いは『風立ちぬ』までずっと引きずってやってきたと今でも思っています。音楽を聞かされてもどこかで聞いたことがあるなとかいうことしかできない。このCD気に入っているんですけど、これでいけませんか、そういう馬鹿な話はいくらでもあるんですけど、本当にそういう意味では、映画の演出をやろうと思ってきた高畑監督の修行と、絵を描けばいいと思っていた(僕の)修業とは違うんです。監督やっている間も僕はアニメーターとしてやりましたので、多くの助けがいっぱいあったと思うんですけど、それについてはプロデューサーが随分補佐してくれました。つまりテレビも観ない、映画も観ない人間にとっては、どういうタレントがいるとか何も知らないんです。すぐ忘れるんです。ですから、そういうチームというか、腐れ縁があったお陰でやってこられたと思います。決然と立って、一人で孤高を保っているという監督では全然なかったです。わからないものはわからないという人間として最後までやれたと思います。


Q.『かぐや姫の物語』は少しはご覧になられたと思うんですけど…。

宮崎 観ていないです。さっきも言いましたが、高畑監督はまだまだやる気だなと。


Q.『風立ちぬ』ついて、最後の場面のセリフを「あなた来て」から「あなた生きて」に変えたと鈴木プロデューサーが以前話していましたが、宮崎監督の考えとは違うものになったと思うのですが、長編最後の作品として悔いのないものになったのでしょうか。

宮崎 最後については本当に煩悶しましたけど、なぜ煩悶したかというととにかく絵コンテをあげないと制作デスクの女性が本当に恐ろしいんです。他のスタッフのところに行って話していると「10分にしてください」とか机に貼ってあったり、机の中にも叱咤激励が入っていて、とにかく絵コンテを形にしないことにはどうにもならないので、とにかく形にしたというのが実態で、やっぱり駄目だなと思いながら、その時間に冷静になって直しをしたんです。
 最後の草原はいったいどこなんだろうと、これは煉獄であると仮説を立てたんですね。カプローニも堀越二郎が亡くなってそこで再開しているんだという、そういう風に思ったんです。菜穂子は迷わないでこっちに来なさいということを言い始めたら自分でこんがらがりまして、止めたんです。やめたことによってすっきりしたんです。「神曲」なんて一生懸命読むからいけないんですよね。


Q.長編アニメで自分の作りたい世界観を作れた達成感はあるのですか? 悔いが残っているとすればどの作品でしょうか?

宮崎 その総括はしていません。自分が手抜きしたという感覚があったら辛いだろうと思うんですけど、とにかくたどり着けるところまでは辿り着いたという風に思っていましたから、終わった後はその映画は観ませんでした。いつの間にか直っていることはないので、振り向かないようにしています。それで同じことはしないつもりでやってきたんです。

僕はかなり頭に来ていました。


Q.ジブリを立ち上げたのが40代の半ばだったと記憶しています。それから今まで日本社会はどういう風に変わって来たかと感じているのか。もう一つは、「僕の70代が終わってしまう」とありますが、どんな70代にしたいと思っているのですか。

宮崎 ジブリを作った時の自分を思い出すと、浮かれ騒いでいる時代だったと思います。経済大国になって日本は凄いんだという、ジャパン・イズ・ナンバーワンとか、そういうことを言われていた時代だと思うんです。それについて僕はかなり頭に来ていました。頭に来ていないと、『ナウシカ』は作りません。『天空の城ラピュタ』(86年)、『魔女の宅急便』(89年)というのは、基本的に経済は勝手ににぎやかだけど、心の方はどうなんだという、そういうことを巡って作っていたんです。でも、1989年にソ連が崩壊して、日本のバブルも弾けています。その過程で、もう戦争が起こらないと思っていたユーゴスラビアが凄い内戦状態になるとか、本当に歴史が動き始めました。

 今まで自分たちが作って来た延長線上にこれは作れないという時が来たんです。その時に体をかわすように豚を主人公にしたり、高畑監督がたぬきを主人公にしたりして、切り抜けたと思うんです。それから長い下降期に入ったんです。失われた10年は失われた20年になり、半藤一利さんは「失われた45年になるだろう」と言っています。たぶんそうなるんじゃないか。僕らのスタジオは経済の上り調子からバブルが崩壊するところに引っかかったんです。それがジブリのイメージを作ったんです。その後ジタバタしながら『もののけ姫』(97年)を作ったり、いろいろとやってきましたけど、『風立ちぬ』までずるずる下がりながら、これはいったいどこへ行くんだろうと思いつつ作った作品だと思います。

 ただ、このずるずるが長くなり過ぎると、最初に引っかかっていた『ナウシカ』以降の引っかかりが持ち堪えられなくなってるところまで来ているのではないか。抽象的な言い方で申し訳ありませんが、僕の70代というのは半藤さんとお話しした時に本当によくわかったんですけど、ずるずる落ちていく時に、自分の友人だけではなくて、一緒にやっていた若い人や、隣りの保育園にいる子供たちが生きているところに自分はいるわけですから、なるべく背筋を伸ばして、きちんと生きなければいけないと思っています。


Q.(中国のメディア)ジブリの作品を将来中国で上映する可能性はあるのでしょうか?

星野社長.JPG星野(写真右) ご存知の通り、中国は外国映画の(公開を制限する)クォーター制という制度があって、その本数が段々規制緩和で増えているという状況はよくわかっているんですけど、まだまだ本格的に日本の作品が上映されていく流れは出来ていないんだと思います。前向きに考えてはいますけども、現時点ではジブリの作品は上映されている状況にはありません。


Q.好きな作品や監督はいますか?

宮崎 さっきもお話ししたように、僕は今の作品を全然観ていないので、ピクサーのジョン・ラセターや、ユーリ・ノリシュテインは友人です。イギリスのアードマンにいる連中も友人です。みんな競争相手ではないと思っています。今の映画は観ていないんです、本当に。高畑監督の映画は観ることになると思いますが、まだ覗くのは失礼だから覗かないようにしています。


Q.『風立ちぬ』では弟子ともいえる庵野秀明監督やスティーブン・アルバートさんなど、監督と縁の深い方々が出演しています。このキャスティングの裏には何か思いはあったのでしょうか?

宮崎 その渦中にいる方は気が付かないと思います。毎日テレビを見ているとか、日本映画をいっぱい観ているとか。僕は東京と埼玉県の間を往復していますけど、映画もテレビも観ていません。自分の記憶の中に甦ってくるのは、特に『風立ちぬ』をやっている間中に甦ってきたのは、モノクロ時代の日本映画です。昭和30年以前の作品ですよね。それと失礼ですが、今のタレントさんたちのしゃべり方を聞くと、そのギャップに愕然とします。なんという存在感のなさだろうと思います。庵野もアルバートさんも存在感だけです。かなり乱暴だったと思うんですけど、その方が映画にぴったりすると思いました。

 でも、他の人が駄目だったとは思わないです。菜穂子をやってくれた人(瀧本美織)は見る見るうちに本当に菜穂子になってしまって、ちょっと愕然としました。そういう意味で、『風立ちぬ』はドルビーサウンドだけどドルビーでないものにしてしまう。まわりから音は出さない。ガヤ(効果音)も20、30人集めてやるのではなく、音響監督は二人で済んだと言っています。つまり昔の映画は、そこでしゃべっているところにしかマイクを向けられませんから、まわりでどんなに口を動かしてしゃべっていても、それは映像には出て来なかったんです。その方が世界は正しいんですよね。それを24チャンネルになったら、こっちにも声をつけろと、それを全体にばらまくという、情報量は増えているけども、表現のポイントはもの凄くぼんやりしたものになるんだと思います。

 それで思い切って、短編作品をいくつかやっていくうちに、これでいけるんじゃないかと思ったんですけど、プロデューサーが躊躇わずにそれで行こうと言ってくれたのは、本当に嬉しかったですね。それから音響監督もまさに同じ問題意識を共有できていて、こういうことは滅多に起こらないと思います。これも嬉しいことでしたが、いろんなポジションの責任者たちが、色だとか背景だとか、動画のチェックをする人とか、音楽の久石(譲)さんにしても、何かとても円満な気持ちで終えられたのは初めてでした。もっととんがって、ギスギスした心を残しながら終わったもんなんですけども、こんなに20年ぶり30年ぶりのスタッフも参加してくれて、映画を作る体験としては非常に稀ないい体験として終われたので、本当に運が良かったと思っています。(つづく)


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