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クリエイターズ★インタビュー:蔦哲一朗監督/『祖谷物語‐おくのひと‐』

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クリエイターズ★インタビュー:蔦哲一朗監督/『祖谷物語‐おくのひと‐』

2014年02月04日
 
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          (主演の武田梨奈)

和田 田中泯さんをよくキャスティングできましたね。

蔦監督 キャストの皆さんシナリオにとても興味を持ってくださって、泯さんは祖谷という場所に興味があったようです。また、僕のことを知りたかったようでした。当時、泯さんは『47RONIN』の撮影をロンドンでされていたので、FAXでやり取りを何回かさせていただき、僕の思い、どういったことを考えているのかを送らせていただいて、それで納得してくださり、「じゃあ、やろう!」ということになったのです。

和田 最初から泯さんでいきたいと思っていたのですか。

蔦監督 シナリオを書いている時はそこまで泯さんをイメージしていなかったのですけれど、お爺という役があまりにも異質な感じなので、普通の役者さんはたぶんできないだろうと。地元の人にやってもらおうという案もあったのですが、それはきついなと思って、スタッフなどと話している中で泯さんという案が出ました。実際に泯さんが山梨で「畑」とかやっているのを僕はあまり知らなかったのですけれど、それを聞いて「ああ、じゃあぴったりじゃないか」と思ってオファーして、実際に泯さんが生活されている所を見学しに行ったりしました。

人間、役者としてのオーラが半端ではない


和田 第一線で活躍する役者さんとやってみて、いかがでしたか。

蔦監督 泯さんは役者さんということは別として、人間としてのオーラといいますか、初めて画を撮った時のオーラが半端なかったです。蔦文也という祖父ちゃんも凄い雰囲気のある人で、近寄りがたい感じがありました。独特の空気感といいますか、祖父ちゃんが入って来たら空気が変わるのです。泯さんもそういったエネルギーを持っている感じの人なので、祖父ちゃんに似ているというか、威圧感とかいろいろな意味での空気を変える方でした。

和田 武田梨奈さんはどうでしたか。

iya_B.jpg蔦監督 武田さんの出演は本当に助かったというか、ありがたかったです。都内の事務所に所属する若い女優さんを何人かオーディションしたのですが、都会的過ぎるのと、身体能力的にとても祖谷の坂道とか無理だろうなというのがあって、実際にそれで撮影時期が延びました。最初、夏のシーンから撮影を予定したのですが、秋からということになりました。(武田が演じた)春菜役が見つからなくてずっと困っていたのですが、そんな時に武田さんの出ている『女忍 KUNOICH』という映画を観て、武田さんのアクション性、身体能力を見たのでいけるかなと思い、直接彼女の事務所に行って話をさせていただきました。その時非常に好印象といいましょうか、純粋な汚れていない方でしたので、お願いし、OKをいただきました。
(写真右、武田梨奈と田中泯)

和田 アクション女優のイメージで売っていた彼女でしたが、作品によってこんなに変われるのかと驚きました。

蔦監督 彼女としても将来的なステップアップとして、アクション以外のこともやっていきたいという強い思いがあったのだと思うのです。危険性のある映画とは思ったでしょうけれど、たぶんそういった意味でいい経験だと思ってやってくれたのではないでしょうか。

和田 祖谷の自然に溶け込んでいて、あの風景に負けない女性の美しさ、強さのようなもの体現していましたね。

蔦監督 泯さん、武田さん、都会から祖谷へやって来た工藤という男を演じた大西(信満)さん、この3人が祖谷の自然に対して負けていないということが大きいと思います。

和田 大西さんの役も難しかったと思います。外から祖谷に入って来た時に、その人間がどうなっていくのかという―。

iya_sub2.jpg蔦監督 結局、夏のシーンが最後の撮影になってしまったので大変でした。夏のシーンを撮影する頃には、大西さんはもうすでに祖谷にいたような感じだったので、そこをどう都会から来たようにするか、苦労されたと思います。ただ、若松孝二組などでやっていらっしゃったので、こういった若い者が頑張っているのは認めてくれ、そういった映画が好きなので、大西さんは即決でシナリオに共感して、出てくれることになりました。(写真右、大西信満)

和田 169分ということになると、興行的には難しい長さですが…。

蔦監督 はい、興行的なことを考えたら、まずやらないでしょうね。完成してから、どうするかというのは思っていましたけれど、撮っている時は配給を自分たちでやるかどうかも決めていませんでした。完成したものを観てもらって、配給してもらおうというのもちょっとありました。実際撮って、編集を終わって、尺が169分になった時に、僕が一番これで出したいと思った尺だったのです。これをどこかの配給会社さんにお願いした時、さらに切られるだろうなと思い、だったら自分でやろうという決意をして、この尺でとりあえずは勝負しようと決意しました。
 今回、自分の名を売ること、映画祭も含めて挑戦ではないですけれど、こういう映画を撮った若者がいるということを見てもらいたいというのがあります。下手に商業に媚びずにやってみて、自分で配給、宣伝もやってみてどうなるか、僕が一番結果を楽しみにしています。劇場さんは観る前は「長いなあ」と言って来るのですけれど、作品を観てくださった方は、ほぼ100%OKしてくださっています。もちろんミニシアター系ですけれども、皆さん何かしら感じてくれて上映を決めてくださいました。

配給・宣伝費はクラウドファンディングでも調達


和田 配給・宣伝費は新たに捻出したのですか。

蔦監督 新たに捻出もしつつ、クラウドファンディングでも調達をしました。でも正直、ほとんどないですよ(笑)。ですからパブリシティとしてお願いしているような感じで、広告などもほとんど打っていません。

和田 プリントは何本ですか。

蔦監督 1本です。海外版字幕ありと字幕なしの1本ずつなので、国内は1本を回していきます。DCP(デジタルシネマパッケージ)は作っていますので、DCPとフィルムで回していきますが、できればもう1本フィルムを増やしたいという思いもあって、クラウドファンディングでフィルム費を募っています。

和田 上映環境の違いなどは気になりますか。

蔦監督 別の映画では気になります。早稲田松竹でアルバイトをしていたというのもあるのですけれど、映写に関して、粗が出るというのは映画館に行ったらわかります。DCPとフィルムですと、まだやはりフィルムの方がいいですね。表現力でいったら全然フィルムの方が綺麗ですので。そういった意味でもフィルムで観ていただきたい。

和田 昨年秋、第26回東京国際映画祭の「アジアの未来」部門に出品されて「スペシャル・メンション」を授与されましたが、そこから次につながるような話は来ていますか。

iya_stuff4.jpg蔦監督 話という話はまだないですけれど、いろいろなプロデューサーの方も観てくださって、今後ちゃんと企画書を持って行って、それがちゃんと具体的なものであれば、やってくれそうな気配はあります。
 今回、プロデューサーの苦労もわかってしまったので、監督としてはあまりよくないのかなと思います。下手に自分でこういうことをやってしまったので、それがプロデューサーの人からどう見られているのかというのはちょっと心配です。ただ、プロデュース業もそれなりに楽しんでいるところはあるので、監督だけだと逆にもの足りない。演出だけやればいいのかと言われたら、微妙といいましょうか。僕はたぶんプロデューサー志向もあると思います。映画の詳細よりも、映画の大きい世界観とかテーマとか、そういったものを重要視したいところがありますね。そう考えると、今後プロデューサーになるかもしれないし、両方やるスティーブン・スピルバーグ的なのが一番理想です。そういった感じを狙って探り探り――と言いつつも、監督だけのお話を頂けたらやらせて頂きますが(笑)。

和田 今回、演出に集中できなかったということはなかったですか。

蔦監督 やはり時間を気にしました。撮影日数も決まっていて、スケジュールも押さえている日数が限られているので、撮り切らなければいけないというのが第一前提になりますね。その意識はかなり高い監督だと思います。こだわりたいところ、満足いかないところがあっても、撮り切るということを優先したところはかなりあります。

和田 監督として撮る時は速い方ですか。本番、1~2回でOKを出すとか。

蔦監督 基本はそうかもしれないです。こだわる時はありますけれど、その理由も今回の場合は背景の霧とか風、光待ちでした。役者さんはまったく問題なく、そんなにNGを出すこともありませんでした。

和田 改めて監督にとって「映画」とは何ですか。一言では言えないかもしれませんが。

蔦監督 難しいですけれど…。昔からみんなで格好よく言い合っているのは、「闇に射す一筋の光」という意味合いで、映画館という場所で、暗闇の中に一筋の光が射して、それが「希望」のような感じ、それが社会全体としても通じるといいますか、観ている人に何かしらの希望とか。僕が今まで観たいい映画は映画館を出た後に「なんか、明日頑張れそう!」と思えるような映画で、そういうものを作れたらなと思っています。

和田 インディーズ(自主映画)にこだわらず、メジャーで撮れるチャンスがあれば撮りたいと。

蔦監督 まだ何もやっていないので、やらずにどうこう言うのもあれですから、撮れるチャンスがあれば一回やってみて、もしかしたらそっちで花開くかなと思えば、そっちの方に行くかもしれないです。

和田 プロデューサー的志向があるというのは強みになると思います。「ニコニコフィルム」というのを会社組織にされてますが、運営はどうなっているのですか。

蔦監督 一応今、一般社団法人ですけれども、運営をやっていかなくてはいけないです。そこでまずみんなにちゃんと給料を払えるようにしたいと思いますが、映画ではたぶん1年間に1本、2本撮らないととても食べていけないので、それはさすがに僕たちの力では厳しい。PVとかVPなどを撮りつつやっていって、それで1年に1本、2年に1本でも映画が撮れたらいいねということで続けていく感じですかね。

和田 今後も映画を作る時にはフィルムにこだわっていくのですか。

蔦監督 そうですね。今アイドルのPVのお話もいただいているんですが、それもフィルムで無理矢理撮ったりしているんですよ。

フィルム撮影にこだわる理由とは


和田 29歳という年齢では珍しいですよね。なかなか周りにいないのではないですか。

蔦監督 いないです。そこまでフィルムにこだわる理由が、僕もよくわからないですけれど(笑)。大学時代にずっとフィルムをいじっていたので愛着を持ってしまっていますから、さすがに見捨てることができないといいますか。学生時代にフィルムで撮った画というのは、ほかの学生が撮ったビデオの画より全然画に力がありました。デジタルでも本当にいいカメラ、ALEXA(アレクサ)とかいうハリウッドでも使っているようないいカメラを使えば、映画ルックな、かなりフィルムに近い画が撮れますけれど、自主映画で撮るくらいのレベルのデジタルだと、まだまだフィルムには勝てないと思います。ただ、それも時間の問題かもしれませんが。

和田 国内にとどまらず、海外にも出していきたいという思いはありますか。

蔦監督 たぶん日本だけだと今後厳しいのではないかと思います。ちゃんと海外でも評価されつつ、海外配給もできるようになれば、その分だけ次回作にお金が出せますので。そういう意識がないと、これからずっと撮り続けることは難しいと思います。

和田 この映画を、監督はどういう観客に観てもらいたいですか。

iya_A.jpg蔦監督 お客さんの層は正直あまり意識していません。宣伝とか考えた時にはターゲットを決めるのでしょうけれど。作り手としては、全員に観てもらいたい。しかし、普段ミニシアターとかで映画を観ないというか、大きい映画しか観ないような方に観てもらいたいというのはありますね。こういった映画もあるんだよと。ちょっと長いですけれど、普段映画を観ていない人にも何かしら考えていただけるというか、問題提起としてもいろいろ新しい脳の使い方をしてもらえたらなと思います。
 先行上映している徳島の人が今そうなっているかわからないですが、徳島の人たちは普段映画をあまり観ません。今いろいろな人が観に来てくださっているので、その映画館で別の映画も観てもらえたらなというのは、本当に思います。

和田 観たお客さんの世代によって反応は違いますか。

蔦監督 たぶん違うと思います。まだちゃんと感想を聞けていないですが。徳島の公開の時は劇場に行ったのですけれど、年配の方が多かったです。若い人という印象がなかったので。年配の方はたぶん祖谷という所自体に興味があると思います。あと、蔦文也の孫が撮ったというニュースがいろいろ流れていて、それで観に来てくださっているので、こんな言い方は失礼かもしれませんけれど、映画のテーマ自体に興味があるかと言われたら、難しいところがあると思います。若い人の意見はまだ聞けていないですね。

和田 時代的に、若い人たちもこういう映画を観れば、意外に響くところがあるのではないかと思います。

蔦監督 やはりジブリ作品の影響もあると思うのですけれど、ここ5年、10年ぐらいでエコという言葉自体も非常に出て来ることになったと思います。そういった意識は若い人はたぶんあると思うのですけれど、僕の実生活の周りで見ていると、理想と現実――電気や水の使い方にしても、意識的にやれている人がいるかといったら、そんなに多くはないですよね。3・11以降、皆さん電気を消しましたけれど、あの意識を常に持つことがなぜできないのかということは思います。若い人はどうなのか。たぶん若い観客は、自主製作に興味がある人、映画を目指している人とかが多いと思いますね。

和田 話をうかがって、改めて監督は無謀な人だなと(笑)。いえ、よくここまで持って来たなというのが正直な感想です。興行的にも現状を打破してくれることを期待しています。

蔦監督 そうですね、よく完成したと思います。(了)





DSCF0372.JPG蔦 哲一朗(つた・てついちろう)

 1984年6月29日、高校野球で一世風靡した徳島県池田高校の元監督・蔦文也の孫として生まれる。小中高時代はサッカーに明け暮れた後、上京して東京工芸大学映像学科で映画を学ぶ。

 大学卒業後、高田馬場にある早稲田松竹で映画館のアルバイトをしながら、自主映画『夢の島』(09年)を製作。第31回ぴあフィルムフェスティバルにて観客賞を受賞した他、バンクーバー国際映画祭、ドイツ新日本映画祭、イギリス・グラスゴー映画祭、イマジン‐ファンタスティック映画祭等に出品し、国内外から高い評価を得る。

その後は映画製作に専念し、本作を撮影。現在に至る。





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