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トップインタビュー:東映配給「劔岳 点の記」木村大作監督

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トップインタビュー:東映配給「劔岳 点の記」木村大作監督

2009年06月26日
――シナリオ化にあたって、木村監督とラインプロデューサーの菊池淳夫さん、監督補佐の宮村敏正さんの3人が共同執筆され、一般的な意味でのプロのライターを起用されませんでしたが、なにか特別な理由があったんですか。

木村 それはもう、僕の思っているドラマ作りをプロの脚本家は絶対やらないだろうという自信がありました。だって、死ぬ人が出ない。病気になる人もいない。陸軍省はちょっと置いといても、登場人物は善人ばかりなんです。そして泣く話でもない。プロの脚本家だったら、ドラマがないと言ってどんどんそっちへ行きますよね。例えば、作品のプロデューサーの坂上(順)さんから「プロの脚本家を入れようか」という話があったのですが、それは勘弁してくれと断ったんです。僕の思想は、そういう意味ではドラマになりにくいことをやるんだと。日常を淡々とやるんだと。「ドラマは自然が作ってくれますよ」と初期の頃は盛んに言っていたね。だから、自分で書くと。ただ自分一人で書くのはしんどいので、2人に手伝ってもらうことにしたんです。3人で1週間ぐらい富山のビジネスホテルに泊まって書いたんです。黒澤(明)さんの真似なんですが(笑い)。3人~5人でやっていた黒澤さんの脚本作りをそっくり真似たわけです。もちろん真似ただけで、ああいう錚々たる人の集団ではないです。全部素人ですからね。ただ、自分が監督をやると決めたんですから、自分の思う通りに、精神的にもやろうということですね。2人に手伝ってもらっているけれど、どんな異議が出て来ても却下してたね。「常識なんかいらないんだ。俺はこういうように生きてるんだ」等々、言いながら脚本を作っていったんです。原作は長い作品なので、相当縮めたんですが、ラストにうまく結論を持っていこうというストーリーはやめようと。一つ一つ突破していく方法を採ったのです。黒澤さんの本作りもそうだと聞いていましたからね。結局、15冊ぐらいやり直したんです。

一番先に坂上プロデューサー

――最初から東映に企画を出したのですか。

木村 そうです。一番先に考えたのは坂上プロデューサーで、「どう」と持ち込んだんです。坂上さんの返事は、「ぜひやりたい」ということで、「よろしくお願いします」という話になったんです。しかし、なかなか動いてくれないわけです。やはり坂上さん自身もこの企画を会社の中で通すことはなかなかの難事業ですよね。それで他社にも持ち込んだんですよ。それも大体トップに会って、「坂上順と一緒にやっていただけませんか」と言ったんです。ある意味では東映と組めということだよね。なんでそんなこと言ったかというと、今の映画界は興行はシネコンだからフリーでしょう。製作もフリー、しかし、配給は誰も手放さないわけです。配給を共同でやろうという発想はなかなか各社にないわけです。今の時代、もう映画界は一つになってやっていかなかったらダメなんじゃないかという、僕の考え方で迫ったんですが、結局、「心の応援はする。大作さんがこれをやるんだったら協力はしたい」という話で…。結局、坂上さんの所に戻ったわけです。

――最終的に東映で決まったのはいつですか。

木村 2007年です。

――07年4月に実景ロケをスタートさせていますけれども……。

木村 あの時にはまだ出ていないのです。しかし、どうしても一回雪の山?4月だから下は春だけど、上は冬ですよ。低気圧が来たら、もう猛吹雪です。そして、僕ら素人の書いたシナリオには相当な欠点があると思っていました。この映画は、あの自然の中に行ったら、どうにでもなっていくだろうと。それこそ、自然に合わせて撮らない限り、撮れないと思っていたので、一度映像を見せないと誰も乗って来ないという気があったんです。東映からの最終的な返事を待っていたら、雪のシーズンは通り過ぎちゃうなと思って、自分でお金を用意して、やれるところまでやろうと、07年4月から実景ロケを始めたわけです。「雪のショットが2~3カット撮れればそれでいい」と言って、1ヵ月いたんです。しかし、この企画はもしかしたらつぶれるかもしれないと。つぶれた時に、映画界ではいろんな企画を持っていろんな所に行き、たいそうなことを言って、それっきりというケースをずい分知っているんです。今回、それをやったら映画界が粗末な社会になると思い、少なくとも自費でここまでやった上でつぶれるんだったら、僕は富山でお世話になった人に、頭を下げられるなと思ったんです。実景ロケの映像を15分ぐらいのDVDにして、音楽を付けて富山県にプレゼントして?それで、「どうもすみませんでした。やはり今の映画界はこの企画は通りませんでした」ということにできるなと思ったんです。それで毎日のように東映大泉撮影所に行って、衣装や小道具の準備をしたんですが、坂上さんがそれを見てやはり東映がその分の製作費を出そうということになり、僕は結果的に一銭も出しませんでした。実景ロケは、ロング・ショットなんだけど、スタッフの人が吹き替えをやって歩いている画です。それは俳優で撮り直してはいますけれど本編に何カットか生きていますよ。それをDVDにして坂上さんにお見せしたわけです。それではっきりエンジンがかかったと、今は思ってますけどね。そのDVDを坂上さんがフジテレビの亀山さん(千広 常務執行役員映画事業局長)に脚本と一緒に持っていったんです。やはり東映だけでは無理だと。 いろんな案が出たんですが、亀山さんに持って行ってほしいと。亀山さんだったら5分5分かもしれないけれど、あの人は映画青年だった時代があるから、この企画をわかってくれるんじゃないかと僕は思ったんです。それで坂上さんが亀山さんに渡したら、その帰り道にもう「一緒にやりましょう」という電話がかかって来たそうなんです。だから、脚本は読んでないよね、DVDを見て、「こんな映画、ないぞ。過去にもこれから先も」と思ったらしいんですね。ほかの映画と違うところに乗ったということを回り回って聞いているんです。亀山さんにはそういうツボみたいなものがありますからね。

※全文は「文化通信ジャーナル09年6月号」に掲載

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