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インタビュー/光武蔵人監督「サムライ・アベンジャー」

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インタビュー/光武蔵人監督「サムライ・アベンジャー」

2010年08月16日

こだわりの特殊メイク


女催眠術師との対決シーン
――監督ご自身が主演も務められましたが、特に役作りでこだわった点はどこですか。


光武 いかに盲目の剣士をリアルに見せるかですね。盲目の剣士と言えば、勝新太郎さんの「座頭市」に勝るものはありません。それにはどう転んでも勝てないので、「座頭市」と差別化させることに苦心しました。仕込み杖で逆手斬りは避け、主人公の盲狼には日本刀を持たせたりと、色々こだわりました。物理的に難しかったのは、撮影中は基本的に目をつぶっているので、立ち位置の確認が大変だったことですね。フォーカスが自分に当たっていない時にはちょっとズルして薄目で見ていましたが(笑)


――主人公が盲目になるきっかけとなる、眼球を木の枝で突き刺す場面はものすごいインパクトでした。あのシーンはどのように撮られたのですか。特殊メイクは「モンスターズ」でも特に力を入れられていましたが・・・。


光武 「モンスターズ」の時に一緒だった、親友のマイケル・デルロッサという特殊メイクアップアーティストと今回も組むことができたんです。
 彼と色々話をしていると、このご時世、特殊メイクアップアーティストもフラストレーションの溜まる日々なんだそうです。今はCGで何でも処理してしまう時代なので、現場でできることも、ほとんどCGが使われています。しかし、マイケルと僕は同世代で、憧れていたのも同じ70年代、80年代のCG以前の映画なので、やれることは極力現場で挑戦してみようと意見が一致しました。ですから、その目潰しシーンにしても、僕の頭の型をとって、そこにゼラチン製でチューブの通った眼球を入れ、それを潰せば血が出るような仕掛けを作りました。そういった細部にもとことんこだわりましたね。


リアル過ぎて痛い!
――あのシーンは衝撃ですね。痛すぎて笑ってしまいました(笑)


光武 ひど過ぎて笑っちゃう、痛すぎて笑っちゃうのが狙いでした(笑)。


――では、CGはどれくらい使っているのですか。


光武 元々ある仕掛けを、もうちょっと派手に見せるための調味料として使いました。刀を払って鞘に納めるシーンなどは、どのように血しぶきが飛び散るかはコントロールできないので、そこはCGに頼りましたね。ただ、本物の血のりもふんだんに使用しているので、どこがCGでどこが本物なのかはわからなくなっていると思います。うまく混ぜ合わせられたと思いますよ。


総製作費は約2500万円


――製作についても伺います。デビュー作の「モンスターズ」の製作費は1000万円だったとおっしゃっていましたが、今回はどのくらいでしたか。


光武 今回はだいたいその倍の2000万円ちょっとです。さらに、映画祭やプロモーション費用その他も含めると約2500万円かかりましたね。


――どうやって資金集めをしたのですか。


光武 「モンスターズ」同様、はじめは個人投資家を募っていたんですよ。プリプロダクションも終わって、さあこれから撮影だという所までこぎつけたのですが、本当にタイミングの悪いことに、そのアメリカ人の投資家たちが何らかの形でリーマンショックを予期したようで、一斉に手を引いてしまったんです。しかし、すでにキャスティングも決まっていましたし、ここでお金集めのために撮影を中止にしてしまうと、俳優さんのスケジュール的にも、同じ形で「サムライ・アベンジャー」を作ることは難しくなってしまいます。そこで、親をはじめ親戚一同に懇願して、何とか製作費を工面しました。ただ、確かにイチかバチかの博打ではあるのですが、今回は「モンスターズ」の失敗を踏まえていたので、回収のメドもある程度念頭にあっての製作でした。不幸中の幸いか、こういった経緯からコピーライトは全て僕のモノになったので、今では逆に良かったなと思っています。


――人生を懸けた作品ですね。


光武 ですね。親父からは遺産の前がりだって言われましたし(笑)。迷惑をかけられる所には、全て頭を下げて作ることのできた映画です。


――製作のクレジットには光武監督と一緒に柳本千晶さんという方の名前が並んでいました。


光武 この映画を作る上でのキープレーヤーと言える存在です。彼女とは、落合正幸監督のハリウッドデビュー作「シャッター」がきっかけで出会いました。当時僕は「シャッター」のロサンゼルスのポストプロダクションの監督アシスタントとして雇われていたのですが、次の予定が入ってしまっていたため、完成までは立ち会えなかったんです。その後任として入ったのが柳本さんです。業務の引き継ぎで彼女と一緒に仕事をする機会があったのですが、アメリカの映画学科を卒業したばかりの若手にも関わらず、機転もきくし、やる気も才能もあるので、彼女を口説き落して「サムライ・アベンジャー」のプロデューサーを共同でやってもらうことになりました。


――そこまで共同プロデューサーにこだわった理由は何ですか。


光武 これも「モンスターズ」の失敗で学んだことなのですが、監督は、映画が完成した時点で燃え尽きてしまい、2ヶ月間くらいは灰のようになってしまいます。しかし、映画を商業ベースに持っていく戦いというのは完成後から始まるので、僕以外にもう一人、本当に頼れるプロデューサーが必要だったんです。彼女には、僕が使い物にならない約2カ月間、一人で映画祭の出品やプロモーションをお願いしたいと伝えました。彼女も快く引き受けてくれて本当に助かりましたね。彼女がいなければこの映画は成立しなかったし、商業ベースに乗せられなかったと思います。


――撮影が終了した後、実際に監督は燃え尽きていたんですか。


光武 燃え尽きましたね(笑)。白髪がバッと増えましたし、寿命も数年縮まったんじゃないかな。ただ、幸いなことに完成してすぐに映画祭を回り始めると、嬉しいニュースがたくさん飛び込んできて、活力をもらいましたけどね。


「硫黄島からの手紙」のセットを利用


――製作のスケジュールはどのように進められたのですか。


光武 元になった短編映画の「復讐剣 血塗れ狼」が04年の終わりには完成していたのですが、この作品を長編映画にするか、TVシリーズにするかなど色々試行錯誤し、06~07年の間にようやく「サムライ・アベンジャー」という長編映画の形にしました。07年の半ばくらいには脚本が完成して、残りの半年で資金集めをして、08年からプリプロダクションが始まってという流れですね。撮影の期間は23日間でした。僕は絵コンテ主義なので、撮り終えたシーンにペケを付けながら1コマ1コマこなしていったのですが、どんどん撮りこぼしが溜まっていて、休日返上で残りの部分を撮影しに行きました(笑)。


――撮影はどちらで行ったのですか。


光武 本体はロサンゼルス郊外です。キャスト・スタッフに宿泊費を出す余裕が無かったので、ロスの中心地から車で40~50分で通える所を探しました。


――劇中には砂漠などの広大な土地が映っていましたが、ロスのすぐ近くにそんな場所があるのですね。


デス・バレー国立公園でも撮影
光武 基本はロス郊外ですが、3泊4日の日程でデス・バレー国立公園で撮影するなどし、スケール感のある画も撮れるように心がけました。デス・バレー国立公園は撮影に関して様々なルールがあって、撮影隊が6人以上になると、公園のパークレンジャーを同行させなければいけないんです。その予算がまた高くて、休憩用のトレーラーを用意する必要もあったりと、色々な制限が付けられます。それなら、ギリギリ5人で撮影しようということになりまして、僕とジェフリー、撮影監督の中原(圭子)と、カメラオペレーターのジェームス、プロデューサーの柳本の5人だけで撮影に向かいました。ロケ場所に行く時は僕も三脚を担ぎましたよ(笑)。他にも、デス・バレー国立公園の出口のすぐ傍にある、ローンパインという町でも撮影を行いました。そこは50年代のアメリカの西部劇のロケーションとしてよく使われていた所で、最近でも「アイアンマン」のアフガニスタンのシーンがそこで撮られています。それらのシーンをうまく噛み合わせることで広がりを持たせました。


――第5の刺客、ゾンビ使いが登場するシーンは、立派な日本家屋のセットを使用していましたね。かなり製作費がかかったのではないですか。


光武 あれもラッキーだったんです。ウイラーズランチという、映画撮影用に色々な空き地を貸している所で撮影したのですが、あの日本家屋のセットはクリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」で使われたものなんです。ウイラーズランチのオーナーが残しておいたそうで、それをそのまま使わせてもらいました。マカロニ・ウエスタンの大先輩である、憧れのイーストウッド監督と同じセットを共有できて嬉しかったですね(笑)


映画祭で高い評価を獲得


――作品が完成した後は、初めにどこでお披露目となったのですか。


光武 ワールドプレミアは、ポルトガルのポルト国際映画祭ですね。これは通称ファンタスポルトと呼ばれていて、世界三大ファンタスティック映画祭の一つとされています。ヨーロッパの老舗ファンタスティック映画祭の一つなのですが、そこでお披露目することができました。オープニングナイトの裏番組で、なかなかいいポジションで上映してもらえましたよ。


――会場の反応はいかがでしたか。


光武 良かったですね!僕はロスから乗り継ぎ乗り継ぎで23時間もかけて現地に着いたのですが、これでお客さんが3人だったらシャレにならないなと思ってました(笑)。しかし嬉しいことに会場は若いお客さんを中心に満席で、上映後はみんな最高だったと言ってくれました。熱烈歓迎でしたよ。我々の狙い通り、海外のお客さんが喜んでくれる作品に仕上がったかなと、ここで自信が生まれましたね。そのすぐ後にはゆうばり国際ファンタスティック映画祭にも出品しました。


――先程、6カ国10個の映画祭に出品されたとおっしゃっていましたが、どの映画祭が特に反応が良かったですか。


光武 サンフランシスコのアナザー・ホール イン・ザ・ヘッド映画祭は最高でしたね。この映画祭は、サンフランシスコ国際映画祭のスピンオフのような位置づけで、ジャンル映画を中心に上映するお祭りです。あの映画祭で上映した時は、満員の劇場が大爆笑の嵐に包まれた92分でした。映画祭期間中に3回上映したのですが、その全てに来たという人もいたり、映画の中にある仕掛けの全てに反応してくれたのがサンフランシスコでしたね。幸い、観客賞をもらうことができました。サンフランシスコはアメリカの中でも有数の映画レベルの高い街なので、そこで好評だったのは嬉しかったですね。
 あと、オーストラリアのファンタスティックプラネット映画祭(最優秀作品賞/特殊メイク効果賞受賞)や、フランスのモーヴェジャンル映画祭(観客賞受賞)も、自分がこれからも映画を撮っていきたいと思うエネルギーをもらえた映画祭でした。自分がすごくいい体験をできた映画祭では、たまたま賞を頂くこともできたので、相思相愛の気分でしたね。


――実際に配給が決まったのは何カ国ですか。


光武 これまで(7月末時点)に、アメリカ、ドイツ、日本、フランス、イギリス、インド、オーストラリア、スカンジナビア諸国など約15カ国でDVDリリースが決まりました。また、日本ではマクザムさんのご尽力で、劇場公開(8月21日より、渋谷アップリンクX)も決定しました。


――「モンスターズ」が日本のみのリリースであったことを考えると、大躍進ですね。


光武 前回の失敗から色々学びましたから。今回は映画祭に出品して、世界配給に回す、願わくば予算を回収するという、大義名分は果たせつつあるなという感じです。


――日本でいよいよ劇場公開、DVDリリースされますが、今の心境はいかがですか。


光武 緊張しています。やはり、日本にはサムライものに対する独自の思い入れを持ってらっしゃる方が多いですし、そういう方の中には無国籍モノ、海外視点で作った作品を受け入れない方もいらっしゃいます。日本の方はすごく目が肥えていますし、その中で、どこまで「サムライ・アベンジャー」が楽しんでもらえるのか、戦々恐々としています。外国で製作された作品特有の妙な日本描写を楽しむように、心を広く持って見て頂けると幸いです(笑) 娯楽作品と思って撮った作品です。世知辛い世の中ですが、この映画を見ている92分の間だけでも、嫌なことを忘れることができるような時間になればいいなと願っています。


活動拠点を日本に


――では最後のご質問です。光武監督は昨年末に活動拠点を日本に移されましたね。その理由と、これからの活動について伺いたいのですが。


光武 様々な理由が重なったのですが、最大の理由は、ハリウッドが映画を撮りにくい環境になってしまったことです。現在のハリウッド発のB級映画は、クレジットを最後まで見て頂くとわかるのですが、ほとんどアメリカで撮っていません。ハリウッドの看板なりロゴなりは背負っていますが、制作母体は東欧の方に移動してしまっている現状があります。例えば、ミラ・ジョヴォヴィッチ主演「フォース・カインド」の撮影はブルガリアで行われました。また、劇中に出てくるアラスカの風景は、カナダのバンクーバーで撮っています。ハリウッドも普通の大企業のように、人件費の安い所にアウトソースする、という時代になっているのです。ですから、監督はもちろん、撮影監督にしても照明部、撮影部にしても、みんな仕事が無い状態になっていて、帰る所のある人は、ハリウッドから次々と脱出しているのです。自分もその中の一人ですね。
 今後は、日本で映画を撮っていきたいと思っています。今回の「サムライ・アベンジャー」を通して、ジャパンコンテンツを世界の人が欲しているんだなと直に感じることができました。日本での商売は大前提ですが、そのプラスアルファとして、海外で勝負したい、海外に日本の作品を持っていきたいと思ってらっしゃる映画制作会社、プロデューサーの方と組ませて頂き、自分が19年間アメリカにいたというバックグラウンドをうまく使って頂いて、日本と海外の掛け橋になるような映画を作らせて頂ければといいなと願っています。



光武蔵人 みつたけ・くらんど

東京都出身。1990年、単身アメリカの高校へ留学。サンフランシスコ芸術大学を経て、カリフォルニア芸術大学にて学士号を、同大学院にて修士号を取得。在学中に映画監督・岡本喜八の通訳を経験、その人柄と作品に魅了され、以後、師と仰ぐ。卒業後は、ラインプロデューサーとして『ラッシュアワー』『ロスト・イン・スペース』『ブレイド』などのDVD映像特典制作に参加。05年には、東映作品『燃ゆるとき』でロサンゼルス撮影部分のラインプロデューサーに抜擢され、『呪怨 パンデミック』で清水崇監督の、『シャッター』で落合正幸監督のアシスタントも務めた。07年、長編初監督作『モンスターズ』のDVDが日本でリリース。


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