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藤圭子さん――波乱万丈の人生に自ら終止符…

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藤圭子さん――波乱万丈の人生に自ら終止符…

2013年08月22日

 衝撃的な事件となった。宇多田ヒカルの母親で歌手の藤圭子さん(本名・阿部純子=享年62)が22日未明、東京・西新宿6丁目のマンション、アトラスタワー13階から飛び降り自殺したというニュースだ。このマンションの部屋は藤さんの元夫で07年に離婚した照實氏の所有する部屋だったと言うのだが、事実関係は不明だ。いずれにしてもマンションの敷地内に倒れていたという。都内の病院に搬送されたが亡くなっていた。それにしても自殺も驚きだったが東京にいたことすらも驚きだった。

 自殺の原因について、一部には空を飛ぶ鳥を観て「自分も空を飛べると思ったようだ」と言った情報もある。もちろん、情報には根拠はないが…しかし、俳優の窪塚洋介も神奈川・横須賀の自宅マンションの9階から「飛べると思った」なんて言って26mも落ちたことがあった(2004年)。そういった意味では、あるいは…ってことも考えられる。

 思えば、育ての親で恩師・作詞家の石坂まさをさんが今年3月9日に闘病生活の末にこの世を去った(享年71)時、藤さんは葬儀に訪れなかった。てっきり、日本にはいないかと思ったが…。それが、あした(23日)は、故石坂さんを偲ぶ会である。午後6時から千代田区のホテルルポール麹町で行われる。余りのタイミングに驚くばかりである。

 ところで、藤さんについて振り返ると…06年3月――米ニューヨークのケネディ空港で、現金約42万ドル(日本円で約4900万円)を差し押さえられたことがあった。この時、藤さんは「この5年間は殆ど日本には帰らず世界旅行をしていた」とした上で「飛行機はファーストクラス。ホテルは各国の高級ホテルに泊まった。5年間で5億円は使った」と、リッチな生活ぶりだったことを吐露していたものだ。

 一人娘で歌手の宇多田ヒカル――ヒカルは、99年に歌手デビューした。ファースト・アルバム「First Love」は、日本の音楽史上最高の850万枚を売り上げた。以来、藤さんは、演歌歌手とは全く別の部分で注目されてきた。

 藤さんは愛娘のヒカルに負けず劣らずの輝かしい実績を持っていた。が、その足跡は、まさにスキャンダラスそのものだった。しかも、藤さんにとっての歌手生活は波乱万丈そのものであった。

 内山田洋とクールファイブのボーカルだった前川清との結婚・離婚。そして人気絶頂での「歌手引退」。音楽関係者によると、彼女の行動は「その都度、芸能事件として大きな話題になった」という。

 東大安田講堂の占拠事件など、藤さんがデビューした69年は、学生運動が激化していた年だった。今回、自殺を図った新宿の西口で「フォーク集会」が行われていた時に、彼女は「新宿の女」で華々しくデビューした。キャッチフレーズは「黒のベルベットに身を包み純白のギターを持った宿命の少女」。

 彼女は、浪曲師の両親の間に生まれた。幼い頃から、両親とともにどさ回りする生活だったという。人前で初めて歌ったのは小学校4年生の時。畠山みどり「出世街道」が彼女の十八番だった。人前で歌った快感が忘れられず歌手を目指すキッカケとなった。デビューは、弱冠17歳の少女だったが「白いギターを抱えて、うなるように歌う彼女の姿に、世の中は釘付けになった」(レコード関係者)という。

 出世作「圭子の夢は夜ひらく」は、デビュー2年目の70年に発売された。

 「この曲は、もともとは園まりが歌っていたんです。そこで、作詞家の石坂まさをさんが詞を変え、藤さんに歌わせたんです。これが100万枚に迫る大ヒットとなった。当時、オリコンのチャートで40週間に亘ってトップを独走しました」(音楽関係者)。

 彼女の人気は不動のものとなった。その藤さんに降って湧いたのが「結婚」だった。当時を知るフジテレビの関係者がいう。

 「当時、生放送していた『夜のヒットスタジオ』に前川清が出演した時、司会の前田武彦さんが切り出したんです。『藤さんとの結婚の意思を固めたと聞きましたが…』という問いに、前川が頷き認めたんです。彼女のスター歌手らしくない素朴なところに惚れたようです」。

 2人の交際のキッカケは、70年9月に東京・浅草国際劇場で行われた「藤圭子ショー」の楽屋に、前川が花束を持って訪れたことだった。その後、藤も東京・有楽町の日劇で行われた「クールファイブ・ショー」に前川を訪ねたことから一気に深まった。

 「藤さんは結婚の意志を恩師の作詞家・沢の井竜二氏に打ち明けたんです。沢の井氏は、リーダーだった内山田洋と相談して、最終的に結婚を了承したといいます」(当時、2人の所属していたレコード会社RCAビクターの関係者)。

 藤さんは、前川について「さっぱりした人柄。結婚できたら嬉しい」と言いつつも「芸能人同志いろいろ問題もあるので、もっと話し合って気持ちを確かめたい」と慎重な態度を見せていた。

 当時、人気絶頂だった藤さんには、結婚するためには余りにも障害が多かった。オリコンのデータによると、70年に出したファースト・アルバム「新宿の女」は、3月30日付から8月10日付まで連続20週も1位にランクされ、入れ替わって1位にランクされたのは、やはり藤さんのセカンド・アルバム「女のブルース」だった。同アルバムは17週間連続でトップに立った。つまり、70年のアルバム・チャートは3分の1強の約9週間、藤さんのアルバムが1位を独占していたわけだ。それだけに、周囲には結婚を反対する声も多かった。

 しかし、「情熱的な性格」だった藤さんは、前川との結婚を決意、71年8月2日に前川の出身地である九州・佐世保のカトリック教会「俵町教会」で式を挙げた。大挙したマスコミやファンに佐世保市民からは「エンタープライズの入港以来の騒ぎ」と驚きが上がっていたという。

 披露宴は、ハネムーン(8月3日から8日まで)からの帰国を待って、8月9日にやはり東京・西新宿にある京王プラザホテルで行われた。ハワイ焼けですっかり健康色になった2人は、喜びに満ち溢れていたという。

 「挙式は洋装でしたが、披露宴は前川が紋付はかま姿、藤は十二単衣。微笑ましいカップルぶりを発揮していました。披露宴の会場には森進一やいしだあゆみら歌手仲間が来ていたと思います」(当時を知る週刊誌の元ベテラン記者)。

 周囲には、19歳の藤と22歳の前川の「若すぎる結婚」に不安視するムキもあった。しかし、はたも羨む「おしどり夫婦」ぶりは、芸能界の大きな話題になっていた。

 だが、2人の結婚生活は長くは続かなかった。僅か1年での破綻だった。離婚の理由は「性格の不一致」というが、芸能マスコミの中からは「一体、どういうことだ…」とのブーイングも上がった。

 「結婚した当時の藤のヒット曲が『圭子の夢は夜ひらく』だったが、離婚したときの最新曲が『別れの旅』。まさに、藤さんは “演歌の星” らしく、結婚生活も歌につれてということになった」

 なんて皮肉られる羽目となった。

 あと、ヒンシュクを買った一つが72年7月30日から4日間、グアム島に夏休み旅行をしたことだった。その模様は、「結婚1周年」と銘打って週刊誌やテレビのワイドショーで紹介され、ファンからも大反響となった。ところが、その楽しそうな旅行は「実は、離婚の話し合い」だった。「帰国するや2人は関係者に離婚を報告した」という。

 離婚会見は8月12日に東京・紀尾井町の赤坂プリンスホテルで行われた。

 記者から理由を聞かれた藤さんは「何を言ったらいいんですか?」「何もないですよ」「(離婚の理由は)なんとなく、お互いに…」。

 「藤も前川も全く理由は曖昧。肝心なことはボソボソと言うから聞き取れない。離婚話は、どちらから言い出すわけでもなくグアムに行った時に固まったと言うんですから、何が何だかサッパリ分かりませんでした。正直言って結婚ごっこだったとしか言いようがない」(当時、取材した週刊誌の元取材記者)。

 そして…歌手生活10年目を迎えた79年のこと。藤は何と「普通の女になりたい」と引退を決意したのである。ヒットに恵まれなかった藤は、キャンディーズの「普通の女の子に戻りたい」ではなく「普通の女になりたい」という気持ちになったと言うのだ。

 「実は、藤の引退説というのは77年ぐらいからくすぶっていた。ただ、その頃は、阪神の小林繁投手とのロマンスが囁かれていたんです。そんなこともあって、引退説は立ち消えになってしまった。しかし、藤の気持ちの中では引退しかなかったのかもしれませんね。RVCレコード(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)の奥野一郎社長とも話し合ったようですしね。その席で、契約問題を整理した上でということになった」(当時を知るプロダクション関係者)。

 79年5月、東京・有楽町の日本劇場で「10周年記念リサイタル~圭子のすべて!」が行われた。そのステージで「私には演歌しかありません。これからも、飾らず、気どらず、欲張らず、で頑張りたい」と11年目に向けての意欲を語ったばかりだった。また、9月には新曲「可愛い女」が発売され、キャンペーンも始まっていた。その矢先に、いきなり「引退する」では、「前川清との離婚の時と全く同じ。単なる我がままでしかない」という声がマスコミ内から上がっても不思議ではない。

 藤さん本人は「もう、何もいらない。1年ぐらいボケッとしたい。外国旅行でもしたい」と親しい友人に漏らしたというが、その引退の一方で、小林投手とのロマンスの裏で東京・六本木のクラブで演奏しているミュージシャンとも交際しているといった噂が出ていた。

 引退宣言は79年10月17日に東京・渋谷のRCAレコード本社で行われた。引退の理由は、やっぱりハッキリしなかった。ただ「物心がついたときから、ずっと生活のために仕事をしてきました。この辺で、すっきりと芸能界から身を引き、第二の人生を過ごしたい」と言うだけだった。さらに、その上で「再びステージに立つことはありません」と強調していた。

 「彼女は、10年間にシングル34作品を出し800万枚、アルバムは200万枚を売上げ、133億円を稼ぎ出した。この金額は当時としては莫大でした」(音楽関係者)。

 そして、藤さんは、その年の12月26日に、ゆかりの新宿――新宿コマ劇場で引退公演を行った。

 引退後は「とりあえずハワイへ行きたい。ハワイでのんびり自分の気持ちを落ち着けたい」と言ったが、「実は、翌年の80年、米国のカリフォルニア州に滞在していたことが分かったんです。彼女は日本に帰る意思のないことを示し、米国の大学に入るために勉強していると言っていたんですけどね」(ワイドショー関係者)。

 ところが、その翌81年7月「二度と芸能界に戻らない」と引退したはずだった芸能界に、突然にカムバックすることになった。しかも名前を「圭似子」に改名しての再活動だった。藤の気まぐれな行動に世間は冷ややかな反応を示した。結局、藤さんのカムバックは中途半端に終わり、再び渡米した藤は翌82年に宇多田照實氏と結婚、83年に長女・光(宇多田ヒカル)を生んだ。もっとも、その照實氏とも07年に離婚していた。

(渡邉裕二)

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