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真相は闇の中!? ワーナーミュージック・ジャパン吉田敬氏の自殺に思う…。

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真相は闇の中!? ワーナーミュージック・ジャパン吉田敬氏の自殺に思う…。

2010年10月13日
 一瞬、絶句した。そして「嘘だろ…」と思った。前代未聞の出来事である。

 ワーナーミュージック・ジャパンの吉田敬社長兼CEOの自殺は、今でも信じられない思いである。

 まだ、48歳の若さである。

 吉田氏は、東京・練馬区石神井の自宅のトイレで首を吊っている所を、夫人によって発見され、都内病院に運ばれたが間に合わなかった。単に「うつ病で通院していた」とか「心の病だったんだろうね」と言ってしまえばそれまでだが、しかし、吉田氏を知る人であれば、自殺するような人ではないことは分かっている。それだけに謎だ。

 吉田氏は、1962年に大阪で生まれた。85年に慶応義塾大学経済学部を卒業し、CBS・ソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)に入社した。97年になるとソニーの社内で「Tプロジェクト」を立ち上げ、その後、デフスターレコーズの設立に尽力した。そこでは平井堅をはじめCHEMISTRY、ザ・ブリリアントグリーンらを育てた。その結果、01年に38歳の若さでソニー・ミュージックエンタテインメントの一部門である「デフスターレコーズ」の代表取締役社長に就任した。

 吉田氏のそういった才能に目をつけたのが当時、ワーナーミュージック・ジャパンの会長を務めていた稲垣博司氏(現、エイベックスマーケティング会長、エイベックスエンタテインメント取締役) だった。人一倍、野望の持ち主だった吉田氏は03年7月に同社を退社し、翌8月に稲垣氏の誘いでワーナーミュージック・ジャパンの代表取締役社長に就いた。

 吉田氏は、ワーナーミュージックに移ったことについて「ハードメーカーの傘下にあるソニーミュージックで、しかも多くのレーベルのある組織の中では、いくら勝っても、勝った実感がしない。気持ちの中に大きな違和感があった」。

 吉田氏はワーナーミュージックに移ってからもボニーピンクやRIP SLYME、コブクロをはじめ絢香、Superflyなど若手のアーティストから新垣結衣などアイドルまで次々に育て上げ「業界の風雲児」とも呼ばれた。

 吉田氏は「基本的に体育会系」でもあった。高校時代は野球部で、甲子園を目指していた。生前「確かに野球一筋だった。甲子園出場は幻に終わってしまったが、目指していたことは確かですね」と語っていた。

 昨年11月に「最高経営責任者(CEO)」となった。業績も悪くはなく順風満帆にも思えたが、今年に入って衝撃的な事件が起こった。覚醒剤取締法違反の現行犯でJAYWALKの中村耕一が逮捕されたのだ。これからと言う時に、裏切られたという気持ちは大きかったはずだ。

 もちろん、それだけが要因になっているとは思わない。経営者としての重荷やプレッシャーは外の人間には分からないものがある。ある意味で孤独なものだろう。まして同社は100%外資である。

 一部には、遺書が残されていたと言われるが、関係者は「ご遺族の意向で控えさせてもらいます」。

 今や音楽業界は、かつてないほどの不況に見舞われている。そういった中で、前述したが、ワーナーミュージックは「厳しい部分はあった」とは言っても、この状況下では「まずまずの業績だった」と思われる。吉田氏も新たな企画で精力的に動きまくっていたとも言われ、スケジュールも詰まっていた。それだけに、単に経営上の問題ではなさそうだ。何か、しっくりしないが、結局のところ真相は闇の中ということになってしまうのであろうか…。

 通夜、告別式は近親者のみの密葬として営まれた。後日、「お別れ会」を行いたいとしている。
 
(渡邉裕二)


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