NHK総合「未解決事件 File.19『北関東連続幼女誘拐・殺人事件』」(9月23日放送)が大きな反響を呼んでいる。徹底した取材でDNA型鑑定の問題に斬り込み、視聴者からは「テレビの力」を再評価する声が広がっている。折しもNHKは今年、18年ぶりに生え抜きで報道畑出身の井上樹彦氏が会長に就任したばかり。「これをよく放送した」と驚かれるNHKから、「NHKならここまでやる」と期待されるNHKへ。今回の番組は、視聴者目線へと変わり始める公共放送の新たな一歩になるのだろうか――。
「これをよく放送したな」。
元放送作家の鈴木おさむ氏が発したこの一言が、今回のNHK「未解決事件 File.19『北関東連続幼女誘拐・殺人事件』」の衝撃を象徴している。
鈴木氏ばかりではない。劇作家で演出家の鴻上尚史氏やお笑い芸人でコラムニストのプチ鹿島氏ら多くの著名人がSNSで相次いで番組に言及した。一般視聴者からも徹底した取材を評価する声が広がり、NHKは9月30日深夜に急遽、再放送を決めた。
今回の反響を単なる「話題になったNHKの番組」で終わらせるのは惜しい。むしろ考えたいのは「これまでのNHKが、ここまで踏み込んだ番組を同じように放送出来ただろうか」(放送関係者)ということである。
NHKには優れた調査報道の蓄積がある。今回の番組も長期間にわたって取材してきた制作スタッフの努力によって成立したものだった。単にNHKのトップが代わって突然に出来た番組ではない。が、「NHKの現場に何らかの変化が起こっていることだけは確か」(放送関係者)という声も上がり始めている。
民放の番組プロデューサーが呟くように語る。
「間違いなくプロパー会長の誕生が背景にあるのだと思います」
NHKでは、今年1月25日に井上樹彦氏が会長に就任した。18年ぶりのプロパー会長誕生は大きな話題となった。
「トップが代われば、局内のムードも一変する」
井上氏は1980年にNHKへ入局。政治記者、政治部長など報道畑を歩き、編成局長、理事を歴任したが、2016年に外郭会社に異動、NHKアイテック(現NHKテクノロジーズ)社長、さらに18年には放送衛星システム社長となった。その後、23年に副会長として7年ぶりにNHKに復帰すると、今年1月には会長に抜擢された。それまで6代続いた外部出身会長から生え抜きの“NHKマン”に代わったことになる。
「井上氏は報道の現場を知っている。NHKらしい調査報道も積極的に取り組んでいるようだ」
NHK局内でも評価は高いという。
井上会長は国会での答弁でも「NHKの価値の源泉は、何よりコンテンツ、番組そのもの」との考えを示し、「風通しの良い組織づくり」にも言及している。実際、就任後は制作現場などへ自ら足を運び、職員の声を直接聞いて回る取り組みを始めている。
「これまでの会長と違うのは、地方局の報道・制作現場の人材にも目を向けていることです。副会長時代でしたが午後の時間帯に『午後LIVEニュースーン』をスタートさせたのも一つでしょう。NHK復帰後から時間を割いて地方局に目を向けていましたからね。それが会長になったことで、さらに地方局の人材育成に意欲を見せているようです。実際、報道・制作部門では若くて優秀なスタッフが集まり始めています」(前出の放送関係者)
そして“井上体制”がスタートして9ヶ月。テレビ界を知る人物から「これをよく放送した」と言わせたのが、今回の「未解決事件 File.19『北関東連続幼女誘拐・殺人事件』」だったというわけだ。
同番組が取り上げたのは、1979年から96年にかけて栃木、群馬両県で相次いだ5件の幼女誘拐・殺人事件。で、その大きな焦点となったのが「足利事件」と、当時、有力な科学的証拠とされたDNA型鑑定「MCT118型検査法」だった。そして、犯人とDNA型が一致したとして菅家利和さんは逮捕され、無期懲役判決を受けた。しかし17年後、再鑑定によってDNAが一致しないことが判明。事件はえん罪だったことが明らかになった。
なぜ「科学的証拠」は間違ったのか。
この番組は、そんな疑問から逃げなかった。写真週刊誌「FOCUS」(新潮社)で事件専門記者を務め、その後、日本テレビの報道局で記者やディレクターに携わりながら長年、この事件を追い続けてきたジャーナリストの清水潔氏も取材班に加わり、科学警察研究所が鑑定技術を独自開発するため技官を派遣した米国にまで取材を行なった。さらに元警察関係者への聞き取りを重ね、同じ鑑定方法が使われた別の重大事件にも調査を広げていった。
鈴木氏が「よくぞここまで取材したな」「もはや取材を超えた捜査」と驚いた理由もそこにある。そして「この番組が放送されたことで、困る人、怒る人もいるかもしれません」とした上で、「それでも僕は、これこそテレビの力だと思います」と評価した。
単に公的機関の説明を伝えて終わるのではなかった。
「何故、えん罪は起きたのか」
「本当に当時の鑑定は信頼できたのか」
「別の可能性はなかったのか」
視聴者が抱く素朴な疑問を出発点に、徹底して真実を追い続けた。
しかも、この番組が投げかけた問題は決して「過去の話」ではないことを印象づけるニュースが、その直後に飛び込んできたのだ。
奇しくも放送翌日の9月24日、1992年に福岡県飯塚市で小学1年の女児2人が殺害された「飯塚事件」で、2008年に死刑が執行された久間三千年元死刑囚の遺族が、第3次再審請求に向けて動いていることが明らかになったのだ。そして、ここでも焦点の一つとなったのがDNA型鑑定だった。
飯塚事件の弁護団は当時のDNA型鑑定結果を記録したネガフィルムをデジタル化して再検証。「犯人と元死刑囚の型は一致していなかった」とする新たな鑑定書を得たと主張していた。
もちろん、これによって久間元死刑囚の無実が証明されたわけではない。確定判決はDNA型鑑定だけではなく、目撃証言、血痕、繊維など複数の証拠を総合して有罪を認定しているからだ。それに、第3次再審請求に向けた弁護団の動きがNHKの放送に合わせたものだったのか、それを裏付ける事実も現時点ではない。
とは言っても、NHKが番組の中で、かつて科学捜査の切り札とされたDNA型鑑定を徹底検証したかと思ったら、その翌日、すでに死刑が執行された別の重大事件で、DNA型鑑定を改めて問い直す動きが表面化したことは確かで、だからこそ、鈴木氏の「この番組をきっかけに、何か一つでも真実が明らかになるなら、そうなってほしい」という言葉が、さらに重く響いた。
長年積み重ねられてきたNHKの取材と、飯塚事件の再審に向けた動き。それぞれ別々に進んできたものが、ほぼ同じタイミングで「当時のDNA型鑑定は本当に正しかったのか」という問いを社会に突きつけた。これを単なる偶然として片づけるわけにはいかない。
しかも、「ここに、これからのNHKを考えるヒントがあるのではないか」と言うのはベテラン放送記者だ。
「ネットやSNSによって情報だけなら瞬時に手に入る時代になった。テレビが速報性だけでネットと競争することには限界がある。だからこそ求められるのは、発表された情報を伝えるだけではなく、これからは『本当にそうなのか』と検証が求められていくのだと思う」
行政であれ、警察であれ、司法であれ、発表をそのまま伝えるのではなく、視聴者が抱く「なぜ?」を問い続ける。つまり「視聴者目線」に立った番組づくりが求められるのだ。
今回の番組がこれほど支持された理由も、そこにあるように思える。
視聴者が当然抱く疑問を、取材する側が徹底的に追いかけた。つまり、視点が視聴者側にある。これは、これからのNHKを考える上でも大きなヒントになったはずだ。
「受信料制度、ネット展開、若者のテレビ離れなど、NHKを取り巻く環境は厳しさを増している。もはや、制度を説明するだけではNHKと視聴者との距離は縮まらない世の中になっている。結局は『NHKは必要なのか』という問いに対し、制度を説明するだけでは視聴者を納得させられない。番組で示すことでしかないと言うことです」(前出ベテラン放送記者)
そういった意味でも、報道現場を経験してきた井上氏がトップに立った意味は大きいというわけだ。
「外からNHKを見る経営者ではなく、番組を作る側の論理も、報道する側の苦労も知る人物がトップにいる。それが現場にどんな変化をもたらすのかは、これから明らかになっていくはず」(前出ベテラン放送記者)
今回の一本だけで「NHKが変わった」と結論づけるのは早いが、しかし「変わり始めたのではないか」と感じさせる一つになったことだけは確かだろう。
民放では制作費や放送枠の問題から難しい長期取材だが、NHKは時間と人員を投入し、海外にも取材班を送り、何年、何十年と埋もれていた事実を掘り起こす。「その積み重ねによって、NHKと視聴者との距離が縮まっていく可能性がある」(放送関係者)というわけだ。
今回の「未解決事件」が、視聴者目線へと変わっていくNHKの一つの転換点になるのか。その答えは、これからNHKが送り出す番組の中に現れてくる。
(渡邉裕二)