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トップインタビュー:原正人 アスミック・エースエンタテインメント(株)相談役

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トップインタビュー:原正人 アスミック・エースエンタテインメント(株)相談役

2008年04月01日
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■僕は過去の人なのか!?














  ↑ 「明日への遺言」3人衆(左から藤田まこと、原、小泉監督)


――久しぶりに現場に出られていかがでしたか。

原 やはり大変でした。ここまで難しいと思わなかったですね(笑)。まずお金集め。最初、思ったよりも集まらなかったんです。本当にその時は、やっぱり僕は過去の人なのかと一瞬思ったくらい。小泉さんはいい作品を3本作っていたし、僕も久々の現場だから、二人のコンビならね、集まるのではないかと多少思っていたんですけど、集まらないんですよ。それに小泉さんのコンテ、イメージはセットを400坪のステージに作りたいと。それは黒澤さんが最後の「まあだだよ」(93年)を撮られた時と同じく、大ステージの中にセットを作って方々から狙うというマルチカメラの手法でやりたいということで、大きいステージが必要だった。東宝で一番大きいステージで、「乱」でも使ったステージ。しかもカメラは2、3台使いたいという話で、本物の質感のあるセットをいかに作るか、作品に輝きを与えるのはある種の質感なんだよね。そこでスタッフもそういう凄いセット、本物の中にいるとみんな気合いが違ってくる。そういう意味で、結構お金がかかっているんです。常時3台で狙い、俳優さんたちはいつどういう風に撮られるかわからない緊張感、あの空気感はさすがですね。
 それから外国人のキャスティングなど、そういうのを積み上げていくとどうしても製作費は3億5千万円かかる。今度は途端にビジネスマンに戻って、どう考えても算盤が弾けない。あまりにもリスクが高い。なんとか2億円台で作りたいが、ケチれば画がやせてしまう。小泉さんにはそういう場を提供しないとこの作品は生きない。コンパクトにできそうだけど、豊かな画を作るにはそれなりの厚みをつけなければいけない。セットだけで約1億円かかりました。
 準備はどんどん進み、キャスティングも決まり、予算見積もり出た。交渉やスタッフとのいい意味でのディスカッションもしながら進んで行ったけど、お金が集まらない。理由はいろいろあるんだけど、そんな中、産経新聞社さんが「金融腐食列島 呪縛」(99年)と「あさま山荘」でご一緒した仲なので最初にやると言ってくれた。それからWOWOWさんが「映画シリーズ」という流れの中で一口乗ってくれた。それぞれが10%の出資で、さらに依田(巽)さんが個人(ティーワイリミテッド)で一口乗ってくれて残り70%。アスミックAには出資や配給・宣伝をお願いするとして、作る責任を含め、自分でやらなければいけないなと思ったので、エース・プロダクションを永井正夫さんと二人だけでこの映画のために作りました。シネマ・インヴェストメント(CINV)から出資を仰ぐ形ですが、幹事責任はあくまでもエース・プロダクションです。クランクインした段階では、70%の35%ずつをアスミックAEとCINVが出しました。そこからいかにして冠スポンサーをつけるかにいろんな人の協力を仰ぎましたね。
 とにかく完成するまではこの予算で、例によって僕らのギャラは後払い、小泉さんは「博士」よりも安いギャラ。藤田(まこと)さんにも破格のギャラでお願いし、その代り興収がある程度いったらいろんなプラスアルファをと協力して頂いた。だからリスクマネーを下げることが出来たんです。

――撮影は、ほぼ順撮りだったということですが。

原 作ることになったら小泉さんに一任ですよ。スタジオにも行きましたが、予算と現場の間の議論はあったけど、その場その場で裁きながら進め、小泉さんも随分協力してくれました。さすが黒澤組、みんなで知恵を出して、より良くするためにやってくれた。というよりむしろ小泉組だよね。作品のスタイルやカラーも完全に小泉さんのペースになりました。黒澤さんには精神を教えられたけど、作風は完全に小泉カラーですね。黒澤さんから学んだものを体に全部染み込ませて、自分流のものを作っている。映画の作り方とはこういうものだと、若いスタッフも教えられたんじゃないかな。丁寧に誠実に手を抜かないで、しかもそれがどれだけ効果的かを知恵で解決する、そういう作り方をよくやってくれた。もっとお金がかかってもおかしくなかった。お金がそれほどかかっていないように見えて、実はかかっている。それが画面に出るんです。

――では、今回はプロデューサーとして納得できる仕事ができたと。

原 ラッシュを見た時、富司(純子)さんが素晴らしくて、富司さんがずっと藤田(まこと)さんを見つめるじゃないですか、あの佇まいと目線で泣いてしまった。富司さんには感謝の手紙を書きましたよ。影の主役で観客の心を掴むのはあなただと。藤田、富司の二人は最高だったね。順撮りでだんだんと岡田中将になっていった藤田さん。富司さんもあの空気感の中で3台のカメラに見つめられながら芝居をずっとやってくれた。光の加減により作られた雰囲気とか緊張感で、映画的なカタルシスが、アクションやエンタテインメントじゃなくても作れるんだなあと思った。これこそ映画の形ではないでしょうか。
 昨年の第20回東京国際映画祭での上映後、岡田資中将のご長男夫妻が挨拶して感動的な雰囲気の中、会見の席で、僕は小泉さんに「感謝する」と言ったんです。僕の最後のプロデュース作品にこういう映画と出合わせてくれたことに対してありがとうと言いました、本当に素直な気持ちで、今まで5年間の空白があって、一本だけのカンバック作にこういう作品に出会えたことは映画人冥利に尽きる。だから当てなければと思う。映画を作って良かったという気持ちは久しくなかった。新鮮な気持ち。昔は作るのに精一杯だったのかもしれないですね(笑)。
 映画祭での完成披露試写会後、住友商事さんやテレビ東京さん、CBCさん(TBS系)といった人たちが応援したいと言ってくれて、我々がリスクを背負った出資35%ずつを肩代わりしてくれました。うれしかったですね。スタッフ、キャストみんなのコラボレーションの輪がどんどん広がっていって、それが出資者まで動かした。後は当てるしかない。目標は100万人動員、少なくとも10億円台にいかに乗せるか。「雨あがる」が興収8億円、「阿弥陀堂だより」が6億円くらいで、「博士」が12億円だから、やはり「雨あがる」を超え、「博士」に近づきたいというのが本音ですね。この目標に向け、小泉監督、藤田さんたちが連日全国キャンペーンを行い、アスミックAも宣伝部、営業部を中心に全社一丸となって、製作委員会各社や劇場の皆さんを巻き込み頑張ってくれた。感謝ですね。

(全文は月刊誌「文化通信ジャーナル」3月号に掲載)




原 正人 (はら・まさと)
 1931年11月18日、埼玉県生まれ。早稲田大学中退後に今井正、山本薩夫監督などの下で制作、宣伝として第一期独立プロ運動参加。58年古川勝己社長に誘われ日本ヘラルド映画入社、洋画ヒット作を生む傍ら、手塚治虫監督作「千夜一夜物語」(69年)、黒澤明監督作「デルス・ウザーラ」(75年)など邦画製作に携わる。81年ヘラルド・エース創立、映画製作、洋画の輸入・配給でミニシアター・ブームの基を作る。95年角川書店と提携、96年社名をエース・ピクチャーズに。98年アスミックと合併、アスミック・エース エンタテインメントとなり代表取締役社長に就任。その後、相談役に。プロデューサー協会賞、仏政府フランス芸術文化勲章オフィシェ(93年)、淀川長治賞(01年)、他受賞歴多数。著書に「映画プロデューサーが語る“ヒットの哲学”」(日経BP社)がある。

原 正人フィルモグラフィー ( )内は監督名
1969 『千夜一夜物語』(山本暎一/製作・脚本・構成:手塚治虫)企画・製作協力
1970 『クレオパトラ』(手塚治虫・山本暎一)製作協力
1973 『哀しみのベラドンナ』(山本暎一)製作協力
1975 『デルス・ウザーラ』(黒澤明)製作協力
1982 『赤い帽子の女』(神代辰巳)プロデューサー
1983 『南極物語』(藤原惟繕)アドバイザー
1983 『戦場のメリークリスマス』(大島渚)エグゼクティブ・プロデューサー
1984 『瀬戸内少年野球団』(篠田正浩)プロデューサー
1985 『乱』(黒澤明)プロデューサー
1985 『銀河鉄道の夜』(杉井ギサブロー)プロデューサー
1985 『食卓のない家』(小林正樹)製作協力
1986 『片翼だけの天使』(舛田利雄)エグゼクティブ・プロデューサー
1987 『瀬戸内少年野球団 青春編 最後の楽園』(三村晴彦)エグゼクティブ・プロデューサー
1987 『源氏物語』(杉井ギサブロー)プロデューサー
1989 『風の又三郎 ガラスのマント』(伊藤俊也)プロデューサー
1989 『舞姫』(篠田正浩)プロデューサー
1989 『夢の祭り』(長部日出雄)エグゼクティブ・プロデューサー
1991 『プロスペローの本』(ピーター・グリーナウェイ)エグゼクティブ・プロデューサー
1991 『人生は琴の弦のように』(陳凱歌 チェン・カイコー)製作協力
1995 『写楽』(篠田正浩)プロデューサー
1995 『クルタ』(マリオ・アンドレアキオ)エグゼクティブ・プロデューサー
1996 『[Focus]』(井坂聡)エグゼクティブ・プロデューサー
1996 『月とキャベツ』(篠原哲雄)エグゼクティブ・プロデューサー
1997 『瀬戸内ムーンライト・セレナーデ』(篠田正浩)企画
1997 『失楽園』(森田芳光)プロデューサー
1998 『リング』(中田秀夫)エグゼクティブ・プロデューサー
1998 『らせん』(飯田讓治)エグゼクティブ・プロデューサー
1998 『不夜城』(李志毅 リー・チーガイ)プロデューサー
1999 『リング2』(中田秀夫)エグゼクティブ・プロデューサー
1999 『死国』(長崎俊一)エグゼクティブ・プロデューサー
1999 『金融腐食列島 呪縛』(原田眞人)プロデューサー
1999 『黒い家』(森田芳光)エグゼクティブ・プロデューサー
2000 『リング0 バースデイ』(鶴田法男)エグゼクティブ・プロデューサー
2000 『ISORA 多重人格少女』(水谷俊之)エグゼクティブ・プロデューサー
2000 『雨あがる』(小泉堯史)プロデューサー
2001 『狗神』(原田眞人)プロデューサー
2002 『突入せよ!「あさま山荘」事件』(原田眞人)プロデューサー
2002 『阿弥陀堂だより』(小泉堯史)エグゼクティブ・プロデューサー
2003 『スパイ・ゾルゲ』(篠田正浩)エグゼクティブ・スーパーバイザー
2008 『明日への遺言』(小泉堯史)プロデュース

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