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トップインタビュー:松岡宏泰・東宝東和代表取締役社長

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トップインタビュー:松岡宏泰・東宝東和代表取締役社長

2008年07月30日
本誌 映画との出会いのようなものはあったんですか。

松岡 うちの父は家で会社、仕事の話は基本的にはしません。それから、父に映画に連れていかれたことは一度もなかったですね。何か初日の日に、2、3度連れて行ってもらった気はするんですが、それは劇場の横で、「ちょっとお前ら、その辺で待っていろ」って言われて、会社の人たちと話をして、30分後には帰ってしまうような。ですから、映画との出会いはあまりないですね。


強制ない父親の態度

本誌 反発のようなものはなかったですか。当時は、東宝の総帥としてバリバリやっている。そうした父親像に反発をもったとか。修造さんのほうは、テニスの道に徐々にシフトしていきますよね。

松岡 そうですね。おっしゃるとおりかもしれませんね。反発というほどではなかったと思うんですけど、逆に強制もされなかったというのを、すごく感じますね。弟の場合は、とにかく「テニスなんかやっても、食えねえからやめろ」とか「そんなんだったら、テニスで大成しないから駄目だ」と。弟に対しては、わりとネガティブに、ネガティブに言っていたような気がします。
僕のほうは、大学を卒業するころになって、進路のことを考えるときに、自分はまず留学をして、英語の勉強もしたいし、そういう学問も今までしたことないからやりたいと。その先に、映画界、映画会社というものに興味があるんだって言ったときには反対というか、「お前なんかが入ってどうなるんだ」と。「お前、わしの子供だから入れると思うなよ。わしはこれだけ大変なことをしているんだ。お前なんかに、それはできない」ということは言われましたね。

本誌 それは、大学生ぐらいのときですか。

松岡 そうです。それでアメリカの大学(ペンシルバニア州オルブライト・カレッジ)に1986年の6月に入ってからは、とりあえず卒業することが先決なので、将来の進路なんか考える暇がなく、生まれて初めてガリ勉していたんですけど、アメリカの大学を卒業できそうになったときに、やっぱりせっかくだったら、ちょっと自分も興味のあることだから、映画業界の勉強をしたいということを言いまして、そうしたら、当時ロサンゼルスにいらっしゃった東宝国際の寺田さんがすごく親身になって考えてくださって、「だったら、20世紀フォックスの国際部で、研修員みたいなのがあるから、そこに入ってコピー取りでもしなさい」と。それで、大学から大学院に行く間の3ヶ月のうち、2か月そこで働くことになったわけです。

本誌 そこでは、結局何をやられたんですか。

松岡 本当に、コピー取りだけですよ。そこは、フォックスのロサンゼルスの国際部というところですけど。英語もたいしてできなくて。ただこちらもミーハーですから、そこの大食堂に行くと、スターがご飯を食べているとか、世界中の数字が入ってきて、どの映画がヒットしているとかヒットしていないとか。あるいはポスターを作るときに、侃侃愕々やっているのを見ると、何か面白そうだなと。そういう気持ちが芽生えたのは、やっぱりフォックスに入れてもらったときじゃないかな。


ICMで修行開始

本誌 91年の5月に同校を卒業され、同年8月にさらに別の大学に1年在籍して92年の10月に、カリフォルニアのインターナショナル・クリエイティブ・マネイジメントに入られていますね。

松岡 この会社は、タレント・エージェンシーです。いわゆるタレント事務所というと、語弊がありますが。アメリカは権利社会ですから、交渉を自分でやるよりは、いわゆるエージェンシーがやったほうがいい条件がとれるということで、当時は3大エージェンシーがあって、CAA、ウィリアム・モリス、そしてこのICMが大手の3社だったわけです。たまたまそのICMが国際関係のことに、もう少し特化しなければならないという時期にあたっていました。それで、当時の東宝東和社長であった白洲春正さんがそういう話を聞いて、「だったら、日本人で大学院を出たやつがいるから、もし興味があるんだったら」と紹介してくださったんです。それでできたてのレポートを持って行って、「私は、日本のことはこれぐらいわかっていますから」と見せて、それで「どんなことでもいいから、使っていただきたい」と言ったら、「じゃあ、メールボーイだったら使ってやるよ」と。それでメールボーイからスタートして、エージェント・トレイニー・プログラムという研修員制度なんですが、だんだん上がっていくと、一エージェントになれるシステムを経験していきます。

本誌 そういう経過をたどるわけですか、みなさん。

松岡 はい、そうです。その会社で当時有名だった俳優というと、アーノルド・シュワルツェネッガー、メル・ギブソン、リチャード・ギア、メラニー・グリフィスさんら、とにかくたくさんの俳優が所属していましたね。もちろん、監督さんもプロデューサーも。日本の伊丹十三監督もいました。

本誌 ここで、何か得たものはありましたか。

松岡 ああいうハリウッドの仕事の現場を肌で感じられたというのが、一番大きかったんじゃないかと思います。最終的には、僕はエージェントになれずに終わっているんですよ。ですから自分で仕事をやり取りして、ディールを決めたとかいう経験はないですし、その会社にいた1年強のうち、半分近くはメールボーイと電話番とかばかりでしたからね。ただ、「ああ、こういう風に仕事は回っているんだな」とか、それからファイルの整理をさせてもらっているときに、全部好きなように見させてもらって、「あ、この人はこのぐらいのギャラをもらっているのか」と、全部知っていました。当時は、個人情報なんてことは、ありませんでしたから。

本誌 それは、すごい。俳優のギャラをほとんど知っているというのは(笑)。

松岡 本当に、全部わかりました。こんなことを言っては何ですが、東宝東和の白洲さんから入るファックスなんかも、全部見られたわけです。「あ、白洲さん、こういうことをしたかったんだ」と。逆に、同業他社の方から来ているファックスを見て、「あ、どちらが勝つかな」という見方もできました。裏側から様々なことが見られましたから、それはすごく貴重な体験でしたね。1本1本、アメリカ人が日本に映画を売るときの態度とかというのを見ていると、「随分軽く見られているんだな」とは、感じていましたね。


(全文は「月刊文化通信ジャーナル」08年7月号に掲載)

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