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大高宏雄の興行戦線異状なし Vol.35

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大高宏雄の興行戦線異状なし Vol.35

2011年06月28日

◎松本人志監督「さや侍」“大衆化論”に異論

 休刊間近の雑誌ぴあを見ていたら、こんな文章があった。「松ちゃんの映画は『大日本人』も観ましたが、そのときより、お客さんの方に降りてきた印象を受けました」(五月女ケイ子のひとりシネコン絵日記)。「さや侍」を評した言葉で、私はおやっと思った。「さや侍」は果たして本当に、「大日本人」より「お客さんの方に降りてきた」のか。

 これは、少し違うのではないかと、私は思う。彼女が言いたいことは、わかりにくさ(「大日本人」)より、わかりやすさ(「さや侍」)のほうが、お客さん向きであるという論理である。これは一見、まっとうな論理にみえる。確かに前者より後者のほうがわかりやすいし、私の言葉で言えば、後者のほうが”大衆的“だと言えなくもない。しかし、松本人志監督の作品としたら、それは違うのではないか。

 「大日本人」の興行を、思い出してほしい。この作品は何と、興収で11億6千万円を記録するヒットとなった。何故、そこまで数字を伸ばしたか。わかりにくさに、魅力があったからである。松本人志は、映画の世界で何をやってくれるのか。これへの多大な期待があり、作品にまとわりついていた不思議な外観が、人々の関心を増幅した。この関心の中核にあったのは、わかりにくさ、わかりやすさといった二分法ではなかったはずだ。

 中身は期待どおりだったというより、それをかなり裏切る形で、得体の知れない奇態な異世界になっていた。私はそのとき、松本人志は映画の世界に自身の全く独自の思想と造形力を導入し、映画を光輝かせたと思ったのであるが、それを裏切りと感じた観客もまた、ある種の心地よさを味わった気さえした。それは、裏切られた心地よさとも言っていいだろうか。

 「さや侍」には、その裏切りが、ない。まっとうさ、わかりやすさへの志向が、彼の作品世界をこじんまりとさせた。これは、映画が「お客さんの方に降りてきた」ということを意味しない。わかりやすさへの志向は今回、これまで彼の映画に関心を抱いてきた人たちの足を、劇場から少し遠ざける結果になったのではないか。

 「さや侍」は、6月26日現在、全国動員36万2108人・興収4億6916万3900円を記録した。時代劇的な作りから年配者が増えたとはいえ、「大日本人」の成績に届かないことの深い意味を考えてみる必要があると、私は思う。

(大高宏雄)

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